アメリカはイランへの軍事攻撃をやめよ

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                                                                            20200108 午後6時 @新宿

 総がかり行動実行委員会が8日夕、新宿駅西口で「戦争反対! アメリカはイランへの軍事攻撃をやめろ 自衛隊の中東派兵反対」を訴える緊急街頭宣伝をおこなった。イランが米駐留基地を報復攻撃する緊迫した中での訴えに、仕事帰りの人たちも足を止めて聞いていた。

 政党と市民の共同の取り組みで、政党では、日本共産党小池晃議員と、立憲民主党菅直人議員がスピーチ。小池さんは、「アメリカはイランの要人をイラクで殺害したが、これは、どんな理由をつけても許されない。アメリカは、軍事攻撃をただちにやめ、イラン合意に立ちもどれ。そして、自衛隊派兵の閣議決定をおこなったときと中東情勢はまったく違うのだから、安倍首相は、自衛隊の派兵をただちに中止せよ。今なら間にあう」と。菅さんは、「自衛隊派兵は、国会で一度も議論されずに閣議決定した、こんなことは許されない。20日から国会が始まるが、閉会中に委員会を開かせよう。野党は結束して派兵を中止せよと追及する」と訴えた。

 中東で人道支援を行っている日本国際ボランティアセンターの今井さんは、「日本政府は、アメリメの有志連合には入っていないというが、アメリカと情報を共有して行動するのだからイランの人たちにどう映るか、アメリカと軍事行動をともにしていると見える。憲法9条を持つ国として、軍事ではなく、話し合いで解決をと働きかけるべきだ」と日本政府の行動を批判した。

米軍横田基地の有機フッ素化合物問題 なぜ、基地内での立ち入り検査できないのか

   東京都が昨年1月、米軍横田基地から2キロ以内にある2カ所の井戸の水を検査したところ、泡消火剤などに使われる有機フッ素化合物の「PFOS」と「PFOA」を検出した。立川市の井戸からは水1リットルあたり1340ナノグラム、武蔵村山市の井戸からは143ナノグラムだった。都は「泡消火剤など基地由来の可能性はあるが、現段階では断定できない」としている。

   朝日新聞は、「横田基地では1993年、大規模なジェット燃料漏れが発覚。直後から都は、基地近くで都や個人などが所有する井戸18カ所をモニタリング地点とし、水質を調べてきた。PFOSとPFOAは対象ではないが、これらを含む大規模火災用の泡消火剤が過去に基地で漏出した、と英国人ジャーナリストが2018年12月に報道したことを受け、同局が調べた」と書いている。

 このジャーナリストは、ジョン・ミッチェル氏のことだろう。同氏は、沖縄タイムスの特約通信員として、2017年11月26日付で酒に酔った海兵隊員が沖縄の嘉手納基地で泡消火剤を噴射させ、一部が基地外に流出していたことが分かったと書いている。2018年10月27日には、「本紙が入手した海兵隊文書によると、2016年2月に同飛行場(嘉手納基地)内消防訓練地区の汚水を調査したところ、1リットル当たりPFOSが2万7000ナノグラム、PFOAは1800ナノグラム検出された」と報道した。このとき、米海兵隊は「普天間の9格納庫のスプリンクラー装置や不特定数の緊急車両などにPFOSとPFOAが含まれる泡消火剤を設置・搭載している」と説明したとしている。また、横田基地でのPFOS流出も書いた。昨年11月18日には、「施設からあふれた泡消火剤は明らかに海に排出されている」と記述した米軍報告書を入手している。

 東京都が横田基地周辺の井戸水の検査を始めたように、沖縄県の企業局(水道局)も嘉手納基地周辺の河川および井戸の水質調査をおこない、PFOSを検出した。私は、PFOSが検出され、問題になった後、北谷浄水場を見学した。活性炭で有機フッ素化合物を吸着させ、取り除いているが、使っているうちに吸着力が低下するため、取り換える期間を半分にして対応せざるを得ないが、その費用が大変だとのことであった。さらに沖縄県普天間基地周辺の河川の水質調査も行い始めた。

 沖縄県議会は、県の調査結果を受けて、2019年7月11日、首相や関係大臣あての意見書を可決し、①公共用水域・土壌などの環境基準値および水道水質基準値などを設定すること②PFOSなどにかかる汚染原因の究明のための調査を国は実施すること③「在日米軍施設・区域環境調査委託業務」の調査項目にPFOSなどを追加したうえで、米軍基地への立ち入り調査を行うこと④PFOS等対策に係る費用を負担すること―の4項目の実現を求めた。

 嘉手納基地を抱える北谷町議会も、「有機フッ素化合物による水質汚染に関し、環境補足協定第4条に基づき、速やかに沖縄県及び当該関係自治体による嘉手納基地内への立ち入り調査を認めること」および、日米地位協定の抜本的な改定を早急に行うよう求める決議を上げている。

 米軍は、現在も、沖縄県が検出したPFOSが米軍基地に由来することを認めていない。そのため、沖縄県が米軍基地内での調査を求め続けているが、いまだに実現していない。

 東京に話を戻そう。昨年12月、都議会で日本共産党の原田あきら議員が横田基地のPFOS流出問題を取り上げた。佐藤東京都技監は「国に事実確認したところ、泡消火剤が流出したとの情報は承知していないとのことだった」「基地への立ち入り調査については、有機フッ素化合物に関する国やWHOの基準が定められていないことなどから、現時点では立ち入りは困難」と答弁した。日米の間には環境補足協定があるが、しり抜けになっていて、PFOSが基地周辺で検出されても、米軍が基地由来であることを認めない限り立ち入り検査ができないということが浮き彫りになった。この問題でも日本の主権が奪われている。

500ドットコム社が渡した金は、翁長県政をかえるための選挙資金だった

 衆院沖縄1区で落選し、九州・沖縄比例で復活当選した維新の下地幹郎衆院議員がきょう1月6日、中国企業500ドットコム社から選挙資金として100万円受け取っていたことを那覇市内でおこなった記者会見で認めた。政治資金規正法違反であり、議員辞職に値する。進退については、後援会で相談してあすにも発表するという。「なぜ中国の企業から」と疑問に思った人は多いだろう。下地議員は「便宜を図ったことはないし、そんな立場にはない」と言っているが、はたしてそうだろうか。

 この100万円は何に使ったのだろう。使途の特定はできないだろうが、下地議員はどんな選挙を行っていたかは、見ておきたい。2017年の衆院選沖縄1区は、オール沖縄赤嶺政賢氏、自民党国場幸之助氏、維新の下地幹郎氏、幸福実現党の下地玲子氏が立候補し、赤嶺氏と国場氏が激しく争った。維新の下地氏は、小選挙区では、この二人の争いに割って入ることはできないどころか、比例も厳しいという観測も流れていた。下地氏が議席への執念をみせたのが、自民との取引だったという。いくつかの説を耳にしたが、下地氏は宮古島衆院4区)に影響力を持っており、宮古島の票を自民候補に入れてもらう代わりに、自民の比例票を維新に投票してもらうバーター取引をやったというのである。いずれにせよ、こういう薄汚い話がまとまるとすれば、それ相応のものもいるだろう。

 

 500ドットコム社が日本のIRに進出する足場にしようとしたのが、沖縄だった。沖縄は、中国人が多数観光に足を運んでおり、そこでカジノが出来ればと、絵をかいたのだろう。ところが、当時の翁長雄志知事は、MICEは推進するが、そこにカジノをいれることはダメということを県政の方針とした。この県政をかえない限り、沖縄でのカジノ構想は実を結ばない。

 それゆえドットコム社は、2017年の衆院選で、解散前後に下地氏、自民党宮崎政久氏に各100万円を配ったが、オール沖縄勢力からみれば、辺野古とカジノ推進のための選挙資金だったという意味を持つ。

 

 安倍政権の「桜を見る会」私物化もひどいが、IRも安倍政権の成長戦略として位置づけられていた。その土台が腐敗していた。その舞台が沖縄と北海道。そして、何度、沖縄が辺野古新基地ノーの審判を下してもなお辺野古しかないと押し通す政権の傲慢。6月に沖縄県議選。沖縄を食い物にするこれら3つを問うことになるのではないか。

香焼島で働いていた李奇相さんの被爆体験

  今年夏、長崎・香焼島(元・香焼町。今は長崎市と陸続きで、長崎市編入されている)にかつてあった川南(かわなみ)造船所で働いていた11人の手記を、長崎原爆祈念館で読んだことがきっかけで、その後、同造船所関係者の証言録を読み始めた。といっても川南関係の人たちの証言を集めた書籍はどうもないようで、『長崎の証言』『原爆と朝鮮人』などで探すことになる。全羅南道出身の李奇相さんの証言を今回紹介したい(証言の一部)が、長崎における朝鮮人強制連行に関する資料館をつくった岡正治氏が、広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団編集「朝鮮人被爆者の実態報告書」(1979年12月15日)で紹介している。

                ◆

 香焼島は長崎港外にあり、全島が造船と炭坑の村であり、そこには私(李さん)のように日本内地から『徴用』でつれてこられた者のほか、直接朝鮮から強制連行されて来た者も含めて五、六千人の同胞がいました。みんな、そまつなバラック飯場などに収容され、ゴザもたたみもない板の間で、ふとんなどありません。支給されていたのは、二人か三人に対して、臭いボロ毛布一枚程度でしたので、文字通り雑魚寝の毎日でした。その飯場には、窓ガラスはあっても、壁は一枚のうすい板ですから、風や雪が隙間から遠慮なく入り込みます。

 あるとき、朝起きてみると、へやの中に雪がうすく積もっていることもありました。余りの寒さに、同胞たち二人で抱き合って毛布をかけて寝ようと思いましたが、ガタガタふるえて、とうとう一晩中ほとんど眠れないことがありました。

 川南造船所とはいうものの、私たち朝鮮人徴用工の仕事は、主として土方仕事で、道路づくりと防空壕堀りでした。毎日がきつい仕事の連続でしたが、太平洋戦争が苛烈になるにつれて深夜の一、二時まで働かされて、全く牛馬のようにこき使われました。作業の監督は、木刀を持ち軍服を着た日本人軍属が当たっていましたが、時には現役軍人が来てきびしく指揮をとっていました。今思い出してもつらかったのは食事のことです。初めは米が三分の一ぐらいで麦や高粱(こうりゃん)がはいっていたのですが、しまいには水のやたらに多いおかゆだけが三度の食事になってしまいました。しかも、深夜まで働かされて、ほとんどまどろむ間もなくたたき起こされ、早朝五時から作業の命令が出るものですから、立ったままでその水がゆを飲み込むという過酷な毎日でしたから、さすがに若い朝鮮人たちも見る見るうちに全身衰弱していきました。

 その上、食事が遅いといっては木刀で叩かれるわけですから、朝鮮人徴用工のくらしは地獄の明け暮れでした。

 

 ある時、横穴式の防空壕堀り作業中、突然落盤事故が発生し、私と一緒に働いていた仲間、三十歳ぐらいのたくましい男だったが、その下敷きになってたおれ、意識不明になりました。驚いた私たちは一斉に駆け寄って「すぐに病院に連れていこう」と言ったところ、日本人の現場監督が憲兵を連れてきて、大声でどなりました。

 「このくらいで死にはせん。さあ仕事だ、仕事だ!」

 「このまま放っておいたら死んでしまう!」

と、私たちもやり返しました。

 ところがその監督は鬼のような顔つきになって、私たちを睨み付け、「なに、コノヤロー、キサマら、朝鮮人のくせに! 生意気なことを言うと、ブッ殺すぞ!」とおどしたのです。私たちは、ほんとうにはらわたが煮えくりかえる思いで、涙を流しながら、そのまま作業を続けさせられたのです。

 また、ときどき兵隊や憲兵たちの詰所に引っ張られて行き、そこで棒で殴られ、ビンタをくらい、ひどい制裁を受ける者も大勢いました。なかには顔が赤くはれ上がるなどなぐられる者もいました。

 

 また、ある晩のこと、夜中に私の枕元で、忍び泣くような男の声を聞いて、目が覚め、起き上がりました。同じ部屋で寝ていた二十五、六歳の同胞の青年でした。何だか恐ろしい夢でも見たものか、うなされているようでしたので、体を揺り動かして静かに聞いてみると、目を覚ました彼は、まだ泣きじゃくりをしながら私に語ってくれました。「自分は朝鮮から連行されて日本にやって来て、十日ぐらいだ。朝鮮のいなかの貧しい農家の者だが、両親とも年老いており、一家を建て直すために、ある娘と結婚した。それが一週間もたたないとき、妻と野良仕事をしていると、突然日本の警察官と朝鮮人の係員がやってきて、私を無理やりに捕まえてトラックに乗せようとした。ちょうど妻は私と少し離れたことろで仕事をしていたので、別れをするために、三十分でも十分でもいいから家族たちと別れを惜しむための時間をくれ、と哀願した。また、なぜこんなに奴隷のような仕打ちをするのか、と抗議した。しかし彼らは『これは軍の命令だ。朝鮮人のくせに生意気なことをいうな』と、はげしい剣幕でおどしつけ、そのまま妻や家族たちと別れの時間も与えられず、後ろ髪ひかれる思いで、そのままトラックに乗せられて役場へ。そこに集められていた同胞の青年たちとひと塊にされて、釜山に運ばれ、日本へ運ばれてきた。そして香焼島へ送りこまれてきた。年老いた両親は、あの可愛い妻は……別れの時間も与えられず……いまごろどうしていることか。それを思うと、はらわたが引きちぎられるような気がする」。

 こういってさめざめと泣くその青年に対して、私はまったく慰めることばを知りませんでした。その話を聞きながら、私もはるかな故郷の両親を思うと、私も身につまされて、男泣きをしていたからです。そして激しい怒りがこみ上げてくるのを、どうしてもおさえることが出来ませんでした。

 

 なぜ朝鮮人は、こんなにひどい目にあわなければならないのか。朝鮮を植民地化した日本帝国主義政府は、朝鮮人など、人間として認めていなかったのです。国を奪い、ことばを奪い、姓名さえも奪った日本政府は、私たちの朝鮮人同胞を日本に強制連行し、はかり知れぬ差別、抑圧、搾取、強制労働にたたきこんだのです。私たちが、香焼島で『地獄の苦しみ』を味わっていたとき、日本全土では二百万以上にのぼる同胞たちが、徴用、徴兵で日本に強制連行され、奴隷のようにコキ使われていたのです。最も危険なところ、最もはげしい重労働を必要としてるところ、最もつらく、きびしい作業現場に、朝鮮人を投げ込んで、酷使する。死んでも消耗品扱い。これが日本のやり方でした。みんな二十歳以上の青年、壮年たちでしたが、それ以下の者も多数いました。『亡国の民』として植民地の惨禍をこうむった同胞たちは、日本敗戦後によくわかったことでしたが、長崎市だけでも約三万人に達していたのです。

 私は次第にこのままでは自分の生命をとられてしまうのではないか、こんな強制労働で死にたくない、何とかしてこの香焼島から逃げださなければならない、そして、殺されるよりも生きつづけたい……と、強く考えるようになりました。

 香焼に連行されて来て八年が経過しました。

 

 やがて、私はあの『運命の日』、八月九日を迎えることになります。

 三日前の八月六日にはアメリカ軍が広島に原子爆弾……当時は、新型の大型爆弾と呼ばれていたという……を投下して広島の町は壊滅したということなどは、私たちにはほとんど知らされていなかったのですが。

 その日の早朝、同僚の若い韓さんと相談して、勇気を出して香焼島の波止場へ行きました。そこにいる守衛に向かって「長崎にいる友人にぜひ会わなければならない急用ができたから……」と、熱心に頼み込み、とうとう検閲をうまく切り抜けて、船に乗り、長崎の大波止桟橋に向かいました。まぶしい真夏の太陽、長崎の海をとりまく緑の山なみ、青い空、私は感激に胸ふるえる思いで、大波止桟橋に下り立ってから、町に出ました。時計など持っていなかったのですが、多分八時ごろだったと思います。

 現在の長崎駅前付近は、立派な商店街になっていて、飲食店、みやげもの店、喫茶店、飲み屋、ホテルなどが立ち並んでいますが、あのころは、駅前全部が商店街ではなくて、商店は前の方、電車軌道に面したところに、数軒あるだけで、その背後の土地は、建物疎開のためだったと思いますが、全部空き地になっていました。

 韓さんと二人で、長崎駅付近まで行ったことろ、空襲警報のサイレンが鳴りましたので、駅前の電停のところで、電車のくるのを待っていました。とても暑い日で、時刻は十一時ごろだったと思います。

 すると間もなく、変な爆音が聞こえてきました。どうもふだんのB二九の爆音とは違うような感じです。

 まぶしげに、韓さんと二人で空を仰いでみると、長崎市の北の方にある、ガス会社の真上あたりに、白い煙の線を、二、三本スーッと曳いているのが見えるのです。

 私は周囲に用心しながら、そばの韓さんに朝鮮語でいいました。「ウゴ・スン・チョッキ!」(こりゃ敵機だ)。

 韓さんもすぐに朝鮮語で答えてくれました。

 「何か音がおかしい。避難しなくては」。

 言い合わせたように、二人で大浦の方へ、四、五メートルも駆けだした、その瞬間です。いきなりピカッ!と、実にものすごい閃光が、目の前を走りました。

 「やられた!」と思って、線路の上にうつ伏せになったように思いましたが、うつ伏せになる前に、大地にたたきつけられたような気がします。というのは、一瞬、気が遠くなって、意識不明でよくわからなかったからです。

 それから、おそらく十分余りたったころでしょうか、韓さんが私を揺り起こしてくれました。「李さん、李さん、どうしたんだ、どうしたんだ」と、朝鮮語で大声で叫んでくれたので、われに返ったのです。

 やっと私は、線路の上に、力なくすわりなおしました。気がついてみると、左の腕が二倍に腫れ上がり、体のあちこちに大火傷をしていました。それから急いで周囲を見回すと、町中が赤黒い埃や煙で暗くなっていて何が何だかさっぱりわかりませんでした。それがたった一発の原爆のもたらした大破壊だと知ったのは、もっと後のことだったのです。

 韓さんも全身血まみれなのに、私を抱えて「しっかりせんね、ここで倒れたらいかんよ。どこかに避難しなくては――」と勇気づけてくれました。その必死の介抱で、私はよろよろと立ち上がりました。韓さんの肩に手をまわし、からだを支えてもらって、みんながぞろぞろと避難していく駅前の山の墓地の方へ、無我夢中で逃げました。ぐずぐずしているとどうなるかわからない、という恐怖の念が私たちを包んでいたからです。逃げていく途中で、私たちは何十人もの負傷者があちらこちらに倒れ、あたりが血で真っ赤になっているのに気づきましたが、どうすることもできませんでした。山を登っていくと、一抱えもある大きい松の木が、根元から折れて倒れており、墓石や石塔などもほとんど倒れているのを見て、爆撃の恐ろしさに足がふるえました。墓地には、二、三十人の負傷した市民たちが集まっていましたが、ほとんど着の身着のままで、全身怪我や火傷で、とても言葉では言い表せないほどのひどい姿でした。それでもみんなは同じ負傷者たちということで、無言のうちにも、いたわりの慰めの気持ちが、そこには見られました。

 ところが、驚くべきことが起こったのです。

 それまでは緊張していて、余り感じていなかった体のあちこちの痛みが急におそってきたために、全身が猛烈に痛みだしたので、思わず私が「アイゴー、アイゴー、アイゴー」と悲鳴をあげたところ、どうしたことか、それまで私たちの側にいた日本人たちが、急に私たちの側から離れていくのです。

 あわてて私は自分の姿をもう一度ゆっくりと眺めますと、戦闘帽の下の顔面や、肩から腕、腰にかけて、左半身が火傷で赤黒く腫れ上がっており、腕は依然として二倍ほどに火ぶくれしているのです。きっと恐ろしい形相だったことでしょう。日本人たちが怖がるのは当然だと思いました。しかし、よく考えてみると、日本人たちは、私が朝鮮人だから、側にいることをいやがっていたのではないか――差別だ、という思いを抑えることができませんでした。

 この墓地で私たちは何時間過ごしたか、腕時計など持っていない私には――持っていても完全に破壊されていたことでしょう――、よくわかりませんでしたが、そのうちに私はまた倒れてしまいました。若い韓さんは、何度も私に「李さん、しっかりせんね。ここで死んでどうするね。朝鮮人は二人だけだよ。だれも助けてはくれんよ」と言って、しきりに励ましてくれましたが、このときの心細さと、力強さを今もよく覚えています。

 

 夕方の七時ごろだったと思いますが、警防団の人たちがやってきて、負傷者は勝山小学校に設けられた救護所に集まりなさいといいましたので、みんな助け合いながら、よろめきながら歩いていきました。重症者はみんな担架で運ばれましたので、私たちも運んで欲しいと、泣きながら頼みましたが、「君たちは若いから歩け」と言われました。その言葉の裏には、「お前たち朝鮮人を、だれが運んでやるものか」という冷たい気持ちが読み取れましたので、私たちは、こんなときまで朝鮮人差別の仕打ちをする日本人被爆者たちの、朝鮮人蔑視の態度に、はげしい怒りを抱きました。それでも私たちは、歯を食いしばって、歩き続けました。

 勝山小学校――無論、当時は国民学校と呼ばれていました――にたどり着くと、負傷者はすぐに学校の下にある防空壕に入るように、言われました。内部は真っ暗で、そこに何十人という負傷者が、ぎっしりとすし詰めになっていました。

 「とうちゃん」「かあちゃん」「痛いよう」「助けてよう!」というような、うめき声や泣き声、悲鳴とも怒声ともわからないようなざわめき。「戦争はこれからどうなるのだろうか」「長崎の町は、すっかり焼け野が原になってしまって……」など、ひそひそと話し合い、これからの運命を語り合う人々。

 その夜は、ほとんど一睡もできませんでした。暗闇の中の地獄絵図――そんな思いが私の胸をしめつけていました。

 日本と朝鮮の歴史を変えた、一九四五年八月九日は、このような『長い一日』でした。

 

 寝るに寝れなかった一夜が明けて、翌朝、運動場へ上がってみると、あっと驚く光景がそこにありました。水道のところに、何人もの人がばたばたと倒れて死んでいるのです。

 負傷者でも、重傷の者には水を飲むことが禁じられていたのに、最後の力をふりしぼって、這いだして来て水を飲み、安心して死んでいったものでしょう。

 一発の爆弾の恐ろしさを深くかみしめて、私はそこに呆然と立ち尽くしていました。

 やがて韓さんは、「自分は李さんよりも若いし、比較的元気だから、香焼島へ帰って、友だちに自分たちのことを知らせたい」といって、名残を惜しみながら、小学校を立ち去っていきました。

 そのうちにトラックがやってきて、私たち負傷者は諫早の救護所へ連れていくという。

 長崎を離れるということに不安はありましたが、とにかく治療してもらえるならば、一刻も早く行きたいという気持ちもあり、トラックに乗せられるまま、私たちも小学校をあとに諫早へ向かいました。

北部訓練場跡地 返還後も使い続ける米軍

 沖縄県の国頭(くにがみ)村と東村にまたがる米軍北部訓練場の「過半」が返還されてから12月22日で3年。返還式典は名護市で開かれたが、私は、別の会場で開かれた稲嶺進さん(当時、名護市長)の話を聞きに行っていたと思う。防衛省は、ロシア製のヘリまで投入して重機を運び入れ、ヘリパッドの建設を急いだ。重機で樹木をなぎ倒して米兵の訓練ルート切り開いたが、根っこを掘りあげなかったために、すぐに道はぼこぼこになる、返還式典後にこっそり工事のやり直しをしたと聞いた。式典から1年後の2017年12月25日、沖縄防衛局は、支障除去を完了したとして、営林局などの地権者に北部訓練場跡地を引き渡した。

 軍事訓練に使用された土地なので、土壌は汚染されているはずだし、不発弾などが残っているかもしれない。その土地を無害化して初めて引き渡されるという建前になっている。そのため、沖縄防衛局は、使用履歴を調べ、土壌の鑑定もおこなった。そして安全宣言を行ったのである。

 ところが、返還地から出て来る、出て来る。未使用・不発や空の銃弾、パラシュート照明弾、使用済み煙幕手榴弾、空の弾薬箱…。琉球新報沖縄タイムスだけでなく、朝日、東京新聞なども報道した。それらの発見者は、チョウ類研究者の宮城秋乃さん。先日、新宿区内で開かれた彼女のトークを聞きに行った。ブログも丁寧に書いている宮城さんだが、そういう文字の世界では触れられない話題もあった。衝撃的な話がたくさんあったが、一つだけ紹介したい。

 返還前、もう使われなくなっているヘリパッドがけっこうあるらしいとは聞いていたが、「LZ―FBJ」という森の一番奥にあるヘリパッド(跡)もその一つだったのかも知れない。

 宮城さんが「LZ―FBJ」に行った時、米軍ヘリが離着陸面ではなく、狭い草地に降りた。返還地に米軍ヘリが着陸することは問題だが、なぜ草地に降りたのかということも疑問になる。

  前者について防衛省は、現ヘリパッドと間違えたのだろうと言っているらしい。宮城さんは、正副2人の操縦士がいて間違えることは考えにくいという。

  後者については、「離着陸面は凹凸がひどく、地中のヘリパッド造成用鉄板も劣化した状態だった」という。そういうところに降りるのは危険であり、草地への着陸を選択したとみるのは妥当だと私も思う。そしてそこから導かれる「ヘリパッドが疲弊して使えなくなったので、返す代わりに新しいヘリパッドを求めたということでしょう。沖縄の負担軽減のための返還ではなかったのです」という彼女の結論は、説得力があると思う。

  宮城さんは、「LZ-1」ヘリパッド跡で、今年9月28日に、使用済みの野戦食約30袋を見つけた。比較的最近捨てられたものと思われ、中にはソースがまだ残っていて、腐敗臭もあったという。こういうことも「米軍が今も返還地で訓練を続けている」と見る根拠になっている。

石垣市議会が住民基本条例廃止を否決 この勝利を力に、住民投票への道を切り開いて

 石垣市自治基本条例の廃止をめぐる議案が本日(12月16日)開かれた市議会本会議で、賛成10人、反対11人の賛成少数で否決された。野党は9人の少数であることから、廃止案が通るのではないかと懸念されていたが、市民の反対の声に押されて与党議員のなかからも廃止反対に回る議員が2人あった。

 石垣市自治基本条例は、2010年に施行され「情報共有」「市民参加」「協働」「多様性尊重」の四つを原則に市政運営の最高規範と位置づけられており、市民の権利や市長の責務、市政運営の原則などを定める。

 与党議員のみで構成する同条例に関する調査特別委員会が今年3月に設置され、11月下旬の5回目の委員会で、「廃止すべき(条例)」と結論付け、今月2日の本会議で「廃止すべきだ」と報告した。提案者の石垣亨議員(自由民主石垣)は「社会情勢の変化や、二元代表制の円滑な運用には必ずしも有用な条例ではない」と主張していた。

 野党議員は、「条例を根拠にした石垣島への陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票の運動を阻害する思惑にしか見えない」と反対。

 16日の本会議では、沖縄タイムスの報道によれば、「野党の質疑で、撤回してもう一度条例のルールに沿って考え直すことはあるか、と問われた石垣氏は『条例が例え無くなったとしても多くの住民に関係ない。いらんものを作り上げるのに2年半かけるのは不要なもの』と答えて議会は紛糾」した。

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 自治基本条例は、日本国憲法の要でもある地方自治をより発展させることに寄与するものと期待されるものであり、これがまだ制定されていない自治体では、つくられてしかるべきものでこそあれ、これを廃止するというのは、民主主義の流れに逆行するものと言うべきであり、その廃止をとめたこと意味は、小さくはない。

 同市では、陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票実施が市民の大きな要求となり、2019年9月、市有権者の3分の1以上に当たる1万4263人の直接請求署名が集まったが、議会は、住民投票条例を否決し、住民が市を相手取って裁判を起こした。その報復とは思いたくないが、今回の自治基本条例廃止の動きにつながったとみる向きは多い。いずれにせよ、きょうの逆転勝利を大きな力にして、住民投票への道を切り開いてほしい。

沖縄県がおこなった子供の貧困実態調査の到達点

 「就学援助」は、経済的に厳しい家庭の子どもに学用品などの費用を支援する制度で、どの子も等しく教育を受ける機会を保障する重要な制度だ。沖縄県では、一昨年度、公立の小中学校の子どものうち、この「就学援助」を受けた子供は全体の23・6パーセントに上った、とNHK沖縄が報道した。

 沖縄県の場合、10年ほど前から、「歯医者にかかれず、歯がボロボロの子ども」など子どもの貧困が議論されていたが、4年前に沖縄県がおこなった実態調査で、相対的貧困率が全国の2倍という結果が出て、県全体で子どもたちの未来を切り開くとりくみをすすめようという機運がたかまった。

 故翁長雄志知事が「子どもの貧困対策は県政の重要課題」と位置づけ、「県民会議」を発足させ、県民ぐるみの支援対策に取り組み始めた。その柱の一つである就学援助制度の受給率を向上させることに各市町村も熱心にとりくみ始めた。テレビ、新聞も「子ども食堂」「就学援助」など具体的に支援策を取り上げた。バスの車内でも「援助を必要とするお子さんは、受けられます」という広告も目にするようになった。このようなさまざまな県民全体の支援の輪が広がる中で、就学援助受給率が向上した。

 NHK沖縄は、「制度の認知が進み、高い割合が続いていると考える。今後も支援が必要な子どもが制度を利用できるよう取り組みを進めていきたい」という県教育委員会の話しも紹介した。

 晩ご飯を買うことができないことが月に何度かあっても、「貧困」であることを隠す家庭は、少なくない。「貧困家庭」であることを知られると、子どもがいじめられると恐れ、だから就学援助も申請しないという。沖縄県は、子どもの貧困実態調査を行い、その現状認識を共有し、就学援助の受給が悪いことであるかのように見る風潮をなくす方向に進んだ。