2014-11-01から1ヶ月間の記事一覧

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(4)

紀念館では赤い布に包まれた遺骨箱も見ました。「その遺族は、毎年お参りに来ています。去年も来ました」。整理番号013、「呂百歳」と書かれています。ほかにも名前を書いたオレンジ色のカードがボックスに貼られています。お参りに来る遺族が目印にしている…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(3)

「2822」ないし「2863」という送還時の数と、「2316」という現存の数の差が、中国の遺族に引き取られた数ということでしょうか。 遺族が遺骨を引き取ったケースがどれくらいあったかという問いに、館スタッフは「水上公園時代、遺骨の引き取りを希望した遺族…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(2)

オフィスのパソコンで31名の名前を検索していただきました。12名の名前が出てきましたが、すべて南さんの「遺骨所在地一覧」で確認されていた名前でした。 整理番号をメモして、遺骨安置室に向かいました。1950年代、60年代の遺骨送還で中国に届けられた遺骨…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(1)

2014年10月24日、中国・河北大学の劉宝辰元教授とともに天津在日殉難烈士紀念館を訪ねました。 『調査報告書 愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働 改定増補版』に掲載されている南守夫さん作成の「地崎組『石門・済南隊』(496名、伊屯武華・…

溏沽万人坑を訪ねて(8)

塘沽港は、元は内陸部にありましたが、老朽化していたため、日本は新港を建設することにしました。 1938年、日本の内務省は河北沿海地区を調査し、39年5月に興亜院が“北支那新港計画案”を策定、40年に工事が開始されました。石家荘の南兵営や済南の新華院な…

溏沽万人坑を訪ねて(7)

「四号嗎頭だよ。労工を船に乗せた埠頭だ」 岸壁から守衛室に戻ると、退勤する労働者が数名集まっていました。どうも私たちのことを話題にしているようです。 劉先生がしめたとばかりに労働者らに話を聞きます。「万人坑は、守衛室の横を通って会社の中に入…

溏沽万人坑を訪ねて(6)

新港路を少し東へ走って右折すると、物流会社。もうすっかり暗くなっていましたが、船が停泊しているのが見えました。会社の入り口で廃線跡を発見。門には「天津中港伟业物流有限责任公司四号嗎頭(天津中港偉業物流有限公司四号埠頭)」という表札がかかっ…

溏沽万人坑を訪ねて(5)

以前、このブログで紹介したことがある中共溏沽区委党史資料征集弁公室所有の「溏沽“労工営”、“万人坑”示意図」にしたがって万人坑跡を探してもらうことにしました。方角は図にありますが、距離は示されていませんので、土地勘のある人でないと、ここだと断…

溏沽万人坑を訪ねて(4)

塘沽新港で少年工として働いていた左文治さんは、万人坑記念碑が建っている場所から北に約600メートル離れた地点に万人坑はあったと証言しています。開発で道路がつくられることになり、現在地に移されたというのです。 再開発がいつのことだったのか、記事…

溏沽万人坑を訪ねて(3)

1992年に造られたこの碑は最初のものではなく2番目に造られたようです。最初の碑が造られたのは1989年。『日本略奪華北強制労工档案史料集』(中国社会科学院近代史研究所、北京市档案館など編)に「塘沽労工集中営遺跡碑文稿」として掲載されています。 <…

溏沽万人坑を訪ねて(2)

まだ明るい時間帯だったので、碑文を読むことができました。 「日本軍は労工を虐殺し、この地に葬った。死者の数は不詳で、数字を上げることはできないが、地元の人々は万人坑と言っている。・・・労工営(収容所)は卡子門(かーずめん)の東、北に鉄路、南…

溏沽万人坑を訪ねて(1)

先月末ですが、溏沽(たんくう)万人坑紀念碑を見に行きました。 河北大学元教授の劉宝辰氏らに天津駅で合流し、溏沽新港に向かいました。北京も天津もどんよりと曇っています。私はのどが痛くてすぐにマスクをしました。原因は、PM2・5。 「マスクをする…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(25)

先月、熊谷組與瀬作業所で強制労働をさせられた中国人男性から当時のもようをお聞きしました。そのことについては、いずれこのブログにも書きたいと思いますが、その後、その男性の家族から「祖父が熊谷組の経理をしていた人物を思い出した」と連絡してきま…