2014-12-01から1ヶ月間の記事一覧

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(2)

2014年8月末、河北大学元教授・劉宝辰氏から「健在の元労工がいますが、話を聞きにいきますか」と連絡があった。メールに添付された「回想録」によれば、孫式恒さんが日本に連行された状況は、次の通りである。 1927年6月12日、滄県孫吉科村(現・塩山県孫…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(1)

神奈川県相模原市にある相模湖・相模ダムは、第二次世界大戦中に造成されたが、労働力の不足から、勤労学徒の動員、朝鮮人、中国人も使われた。中国人の場合は、まぎれもない強制連行である。2014年10月24日、中国河北省塩山県で熊谷組与瀬作業所の生存者を…

第6回大府追悼式典での冨田事務局長の「経過報告」

「みかん畑の大きなテント 第4号」に掲載されている第6回大府追悼式典での冨田事務局長の「経過報告」は次のとおりです。 経過報告 愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会事務局長 冨田好弘 大変お忙しい中、ご参加くださいましてありがとうご…

みかん畑の大きなテント 第4号

みかん畑の大きなテント第4号で、第6回大府飛行場中国人強制連行殉難者追悼式典に中国の生存者・唐燦さんから寄せられたメッセージが紹介されています。

西秀成氏の「大府飛行場の2本の滑走路=現地調査に加わって」

愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会のニュース「みかん畑の大きなテント第4号 2014年12月」が送られてきました。9月13日に執り行われた「大府飛行場中国人強制連行殉難者第6回追悼式典」の報告と、追悼式典に先立ってとりくまれた強制連行…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(13)

天津日報2000年07月17日の記事には「以前にも同じような碑が同地で見つかっている」とあるのは、1995年のことのようです。 強制連行問題の研究者・老田裕美さんが、「1995年8月15日 日本の侵略者が中国労工を殺害した1つの確証 当市は死亡した戦争俘虜の墓…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(12)

遺骨の扱いについて国民党政府は、どのような方針をとっていたのでしょうか。 天津市の大事記には、「1945年(中華民國34年) 10月11日 國民黨天津市政府接到第11戰區司令部天津代表辦事處的指令,根據天津地區『日本官兵善後聯絡部』的通知,中國勞工31601名…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(11)

ある本に「(帰国したもののうち若く健康な者は)国民党軍や警察に強制的に編入し、同胞が持ち帰った遺骨は天津郊外へ打ち捨てるという徹底した非人道的な態度」があったと書かれています。「国民党軍に強制的に編入し」ようとしたというのは、私も複数の証…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(10)

天津市警察局がまとめた日本で死亡した労工の遺骨の姓名台帳があるそうです。それによると、地崎組関係では、伊屯武華11人、大府2人、平岸2人、第一華人2人、大夕張23人、上砂川38人。(老田裕美:在日殉难中国劳工的骨灰回到祖国怀抱) 大府で死亡したの…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(9)

愛知県の大府飛行場(東海市・大府市)滑走路拡張工事で亡くなった地崎組の被害者・宋学海さんの遺骨箱についても聞きました。 ――地崎組の遺骨箱は、中身が入っていないものが多いとのことでしたが、宋学海さんの遺骨箱はどうですか。 その人の遺骨箱が空か…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(8)

天津在日殉難烈士紀念館に保管されている大府5名・平岸8名の遺骨およびそれ以外の伊屯武華の10名・下関で亡くなった6名の遺骨の所在と、西本願寺札幌別院の納骨堂に保管されている遺骨との関連も考察する必要があります。 同別院には、地崎組が預けた朝鮮人…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(7)

天津在日殉難烈士紀念館では、もう一つ、調べたいことがありました。地崎組石門・済南隊(作業所は、伊屯武華・置戸・大府・平岸と移動)で亡くなった31人のうち、遺骨送還運動でだれの遺骨が中国に届けられたかを明らかにするということでした。 戦争時に日…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(6)

遺骨安置室を見ているうちに、他とはちょっと違う遺骨箱に気づきました。他の箱より大きなもので、「遺骨(残骨分) 地崎組東川事業所」と書かれていました。 「遺骨残骨分」というのは、どういうものでしょうか。 「第1次~第8次 中国人殉難者遺骨送還状…

天津在日殉難烈士紀念館を訪ねて(5)

地崎組石門・済南隊の一人、馬蘭祥という人の遺骨箱を見ましょう。北海道赤平市平岸で、戦後、中国隊内部のトラブルで亡くなった8人のうちの1人です。 布で覆われていて、「馬蘭祥之霊」と書かれ、複数の数字が書かれています。左肩の「645」は、整理番号…