2013-05-01から1ヶ月間の記事一覧

「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(9)

この章のしめくくりに河北大学の劉宝辰教授の石門南兵営に関する解説を紹介します。 日本軍は、1941年6月に河北省石門(現・石家荘市)に俘虜収容所を設立し、“労工教習所”、また“労工訓練所”と称した。市街区の南部にあり、地元の人たちは“石門南兵営”と呼ん…

「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(8)

もう1人、石門労工教習所に収容されていた姜化民という人の証言を見ましょう。河北省の広宗県で第四区区長を務めていた人で、1943年12月29日夜、密告者のために逮捕され、労工教習所に送られました。彼は、その後、日本に「労工」として送られ、北海道の伊屯…

「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(7)

飢えと拷問、重労働、そのうえ雨も吹き込む宿舎。労工教習所の中国人たちは、死の崖っぷちから逃れるべく決死の暴動をおこないました。その結末も趙菊さんは見ていました。 * 南兵営で暴動が発生して間もない、雪が舞い、特別寒いときだった。午後5時、60、…

「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(6)

趙菊さんの証言は続きます。 * そのころこの仕事(遺体を墓地に運ぶ仕事)をしたのは13人いた。中心的だったのは、趙秋来、趙福群、劉東来。いつ、どこに運ぶか、その手はずを3人から聞いた。 南兵営は、約2メートルの塀に囲まれていた。塀の上には、電力…

「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(5)

何天義さんがインタビューした遺体処理班だった人の証言が『侵華日軍集中営』に出ています。趙菊という農民ですが、土地がいくらもないため、農家から野菜を買い入れて路上で売って生計をたてていました。 * 貧乏人が行き倒れになっても世話をする人はいな…

「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(4)

石家荘労工教習所は、石家庄市の市街地・裕華東路にありました。現在、「平和公園」になっています。公園の東側に“石家庄収容所受難同胞記念碑”が建てられています。1997年8月15日、“後代の人に歴史を伝える”ため、抗日戦争勝利60年記念としてつくられました…

「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(3)

もう1人、地崎組に強制連行された臧趁意さん(地崎組伊屯武華124番)の証言に耳を傾けましょう。強制連行問題の専門家で、中国河北大学の劉宝辰教授が2010年に彼をたずねています。 「正確な住所は、河北省饒陽県同岳郷王同岳村。1994年に彼が書いた回想録は…

「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(2)

地崎組に連行された張兆林さんの証言は続きます。 * (石家荘収容所の)病棟は、1、2、3級の3等級に分けられた。3等級になると、十中八九死ぬ。毎日午後4時前後になると、「平板車」(荷台付きの自転車)に死体を載せ、外に運び出すところを見た。乱雑に…

「人間地獄」と恐れられた石門労工教習所(1)

「強制連行は死のロードだった(1)~(6)」で、中国の塘沽や青島から船で輸送されて日本に来るまでに中国人被害者がどのような惨状にあったかを見ました。今回からは、中国の収容所はどんなところだったかを見ます。まず、地崎組に連行された張兆林さん…

強制連行は死のロードだった(6)

地崎組が石家荘と済南の収容所から連行し、北海道の伊屯武華・置戸、愛知県の大府(愛知県)、北海道の平岸の4カ所で強制労働をさせた事件の連行の過程も見なければなりません。この被害者たちは、収容所の地名からそれぞれ石門隊・済南隊と呼ばれました。…

強制連行は死のロードだった(5)

「番号296孫金生20歳」の「水葬明細書」です。地崎組の華労名簿では、東川出張所の251番となっています(番号が違う理由は分かりません)。船中で死亡した場合、日本へ間もなく入港というときは、上陸した場所で埋葬されましたが、日があると水葬にふされま…

強制連行は死のロードだった(4)

地崎函館に連れてこられた岳雲起は、1945年2月2日に胃腸カタルで亡くなっています。同じ村の劉智功は、「岳雲起は船で病気になり、何も食べられず、函館に着いた後、不眠症になった。眠れないのに日本人は休みをあたえず、だまして仕事をさせた。それからあ…

強制連行は死のロードだった(3)

「地崎函館」に連行された中国人は、1944年11月21日に塘沽港を出港し、12月2日に下関に着きました。事業場報告書を見ると、7日間の航海予定で、その分の食糧しか船には積み込まれなかったが、実際には12日間かかっています。昨日のブログで紹介した張樹堂の…

強制連行は死のロードだった(2)

地崎組が中国人の強制連行・強制労働をおこなった事業場は11に上りますが、整理すると6グループに分かれます。 ① 「地崎伊屯武華(そののち置戸・大府・平岸)」 に1944年4月1日に488人(青島出発は3月21日で496人だったが、途中8人が死亡) ② 「地崎東…

強制連行は死のロードだった(1)

GHQが集めていた地崎組の上砂川関係文書に戻りましょう。SCAPシート№LS-23649は、「諸報告書綴」というタイトルになっていて、「10月1日~10日作業旬報」「11月分事故状況報告書」「夜警守衛守則送付ニ関スル件」「疾病状況」「食糧給与状…