2015-01-01から1年間の記事一覧

相模ダムと中国人強制連行関係資料(12)

資料6-7 芹沢氏の話 K:第一回目の逃亡は何日頃でしたか? S:5月の節句あたりではなかったかね。1回目は日連か名倉で捕まって、2回目は6月頃か7月頃。小原の八幡様の裏でネギを掘って食べていたところを捕まったという事でしたね。3回目は知らな…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(11)

資料6-6 芹沢氏の話 K:捕虜と直接の対話とか、日常的な話しをしましたか? S:それは作業上の事の話しですね。まあ一台のトロッコを何人のクリ(苦力)で押していけと。5台も6台もトロッコを列べてね。この1台を4ったりで押してもらうというような…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(10)

資料6-5 『相模湖ダムの歴史 中間報告』(1977年7月)には、作業場で通訳をしていた人の証言も記録している。芹沢氏は、華北労工協会が派遣した通訳ではなく、熊谷組配下の加賀山班で現場通訳を務めた。 芹沢氏の話 S:芹沢氏 K:記録する会 (明らかな…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(9)

資料6-4 佐々木氏の話 K:大正館のほうでは毎朝、旗を上げて宮城遥拝をやったらしいですが、佐々木さんのところではどうでしたか。 S:うちの方ではしなかったですねえ。そういうことはしなかった。朝は、まー、要するに朝礼はやったですよね。点呼をとるで…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(8)

資料6-3 『相模湖ダムの歴史 中間報告』佐々木氏の話の続き K:中国の人はまんじゅうなんかでしょうが、朝鮮の人は米の飯で、日本と同じでしょうねえ。 S:(略)うちにおったシナ人も、なんか我々の食べられない旨いもん食っておりましたよ。 K:大正館の所…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(7)

資料6-2 『相模湖ダムの歴史 中間報告』(1977年7月) 佐々木氏の話 S:佐々木氏 K:記録する会 S:えー、それ(マル募の朝鮮人)をねえ、ここの場合は各親方に渡さなかった。守衛とか色々そういうものをね、熊谷組が直轄的に管理していた。そして向う…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(6)

資料6-1 「中国人殉難者名簿」(中国人殉難者名簿共同作成実行委員会、1960年2月) 相模湖ダムの中国人強制連行問題は、いつころからとりくみはじめられたのだろうか。1950年代の遺骨送還運動では、神奈川県では横浜の華僑墓地に埋められていた中国人俘虜…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(5)

資料5:相模湖では、「相模湖・ダム建設殉職者合同追悼会」が毎年7月末に開催され、昨年2014年は36回目であった。この式典では、地元の人々によって当時のことが語られている。『続々・津久井湖を語る』には、相模湖町長だった小野津茂明氏、藤野町長だった…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(4)

資料4:『相模川流域誌』によれば、相模湖ダム工事に動員された学徒は、日本大学土木科・早稲田第二高等学院・横浜高等工業学校建築科・県立平塚農業学校・県立愛甲農業学校・県立相原農蚕学校・私立藤沢中学校の7校で、鉄筋、丸太、角材、セメントなどの材…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(3)

資料3:造船所から相模ダムの建設現場ヘ 藤沢中学校 吉澤邦明 相模ダム工事に動員された学徒たちは、中国人との接触は少なかったものの、証言を残している。『学徒勤労動員記録』(神奈川の学徒勤労動員を記録する会編)には、私立藤沢中学5年生だった吉澤…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(2)

資料2:『相模川流域誌』 相模川流域誌編纂委員会(2010年) この流域史は、国土交通省関東地方整備局京浜河川事務所のもとにつくられた編纂委員会によって書かれたものである。 相模ダムはなぜ作られたのかを押さえておくことは、中国人・朝鮮人の強制労働…

相模ダムと中国人強制連行関係資料(1)

資料1:『相模湖町史 歴史編』(相模湖町史編さん委員会編 2001年3月21日) 全国135の中国人強制連行現場を調べ歩いた作家の野添憲治さんは、「どこの市町村でも分厚い立派な市町村史を主パンしているが、アジア太平洋戦争の時に地元であった朝鮮人・中国…

中国での強制連行裁判にかかわる最近の動きについて

2014年上半期に中国各地で強制連行・強制労働の被害者・遺族が相次いで中国の裁判所に提訴していたが、北京市第一中級人民法院(日本の地裁に相当)だけが正式に訴状を受理していた。その後、動きは見られなかったが、2015年2月11日、弁護団の康健弁護士らが…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(14)

『西松安野友好基金和解事業報告書』には、会計報告もされている。中国国内で基金運営を疑問視した人が会計報告を公開するよう求めたが拒否されたと主張した報道がなされたことがあった。そのことは、これでクリアされたのであろう。 第1回の補償金は、継承…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(13)

調査では、名簿に記載された360人のうち271人の本人もしくは遺族の消息が明らかになった。被害者の半数さえ明らかにすることは困難とみられていただけに、75%もの被害者と遺族が明らかになったのは、大きな成果というべきであろう。強制連行の真実に迫った…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(12)

調査員の一人、蘇秀芬(そ・しゅうふん)さんは、『西松安野友好基金和解事業報告書』に次のように書いている。 ――2011年5月、私は広島を訪問する活動に参加し、心を動かされた。日中の多くのボランティアが、第2次世界大戦期の労工及び遺族の正義を取り戻…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(11)

(右から)劉元教授の話を聞く張振侖さんと紀念館職員の安さん。左端は通訳の史艶玲副教授=天津殉難烈士紀念館で 邵義誠さんの娘婿の張振侖さんは、家族として義父の日本での裁判闘争を支えてきた。2009年10月に被害者救済のための西松安野友好基金ができて…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(10)

西松建設はこの最高裁の付言に従って、2009年10月に安野の被害者と和解した。もう一つの日本国内での中国人を使役した信濃川事業所でも2010年4月に和解した。 邵義誠さんが中国に帰国したとき、母は亡くなっていた。父も43年に行方不明になったまま。そして…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(9)

こうした詳細な強制連行・強制労働の事実認定をしながらも原告敗訴の判断となったのは、中国人の請求権問題であった。 判決は、中国人の請求権に関する議論のまとめで次のように結論づけている。 「本訴請求は,日中戦争の遂行中に生じた中国人労働者の強制…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(8)

・終戦後の昭和20年8月24日,上告人は,政府機関から安野発電所事業場における中国人労働者の稼働停止の指示を受け,その稼働を停止させた。その後,中国人労働者らは,連合国軍の指示により中国に送還されることとなり,同年11月24日上記事業場か…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(7)

ここで、最高裁の判決をみておこう。 最高裁判決は、まず、「強制連行及び強制労働の実情に関し,原審の適法に確定した事実関係の概要」として次のように認定している。 ・上告人(本件当時の商号はY’)は,中国大陸に進出する日本軍の軍事行動に追随し,鉄…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(6)

邵義誠(しょう・ぎせい)さんは、企業との長い話し合いの末に和解したことを、「賠償金が少ないという声もあったが、日本が謝罪の姿勢を示したことを評価した」と話す。しかし、「長年つかえていたものが取れた感じだが、うれしいというほどではない」とも…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(5)

「大変だったのは、作業時、冷たい水の中から石を取ったことだ」と言う。その石は、堰堤を築くのにも使われた。川底はすべりやすく、作業中に邵さん転んで足をけがした。けがが直接の原因というより、その後の治療の不十分さによって重い皮膚病を患ったとい…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(4)

邵義誠さんは、日本に連行されるいきさつを次のように語った。 「当時、天津でたばこを売って生計をたてていた。仕入れのため青島に行き、大港駅前の通りを歩いていたとき捕まり、旅館の裏の平屋に閉じ込められた。拷問を受けることはなかったが、所持金700…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(3)

中国人が働いた現場では、日本人監督の下で日本人や朝鮮人の現場監督が中国人を使った。朝鮮人は、削岩機で岩盤に穴を開ける、穴にダイナマイトを詰める、電気ドリルで壁面を平らにする、坑木を組むなどの技術や経験がいる仕事をした。中国人は、主に発破で…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(3)

中国人が働いた現場では、日本人監督の下で日本人や朝鮮人の現場監督が中国人を使った。朝鮮人は、削岩機で岩盤に穴を開ける、穴にダイナマイトを詰める、電気ドリルで壁面を平らにする、坑木を組むなどの技術や経験がいる仕事をした。中国人は、主に発破で…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(2)

邵さんが建設に携わった中国電力安野発電所は、広島市から北西に約40km、太田川をさかのぼった山間部にある。工事を請け負ったのが西松組(現・西松建設)で、1944年5月に着工し、46年末に完成した 『西松安野友好基金和解事業報告書』によれば、西松組は厚生…

西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(1)

昨年秋、天津市在住の邵義誠(しょう・ぎせい)さん宅を河北大学元教授の劉宝辰氏といっしょに訪問した。邵さんは、広島・安野(やすの)の生存者で、現在、89歳。たいへんお元気で、補聴器を使う必要もなしにインタビューに応じられた。中国から中国人を強…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(24)

孫式恒さんのインタビューは以上である。最後に同席したファミリーに聞いた。 ――お母さんと一緒に行かれた妹さんは、きょうはいらっしゃいますか? (孫さんの妹・孫淑蘭)はい、私です。そのとき、私は6歳でした。母に電柱の上の方を見なさいといわれました…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(23)

――故郷に帰りついたのは、1946年の春節(旧暦の正月)ですね。家族と再会したときのもようをお話しください。 (孫)当時、家にいたのは母、妹、そして妻です。日本軍に捕まる前に結婚して、2年間、待っていてくれました。家族はたいへん喜びました。それに…