香焼島で働いていた李奇相さんの被爆体験

  今年夏、長崎・香焼島(元・香焼町。今は長崎市と陸続きで、長崎市編入されている)にかつてあった川南(かわなみ)造船所で働いていた11人の手記を、長崎原爆祈念館で読んだことがきっかけで、その後、同造船所関係者の証言録を読み始めた。といっても川南関係の人たちの証言を集めた書籍はどうもないようで、『長崎の証言』『原爆と朝鮮人』などで探すことになる。全羅南道出身の李奇相さんの証言を今回紹介したい(証言の一部)が、長崎における朝鮮人強制連行に関する資料館をつくった岡正治氏が、広島・長崎朝鮮人被爆者実態調査団編集「朝鮮人被爆者の実態報告書」(1979年12月15日)で紹介している。

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 香焼島は長崎港外にあり、全島が造船と炭坑の村であり、そこには私(李さん)のように日本内地から『徴用』でつれてこられた者のほか、直接朝鮮から強制連行されて来た者も含めて五、六千人の同胞がいました。みんな、そまつなバラック飯場などに収容され、ゴザもたたみもない板の間で、ふとんなどありません。支給されていたのは、二人か三人に対して、臭いボロ毛布一枚程度でしたので、文字通り雑魚寝の毎日でした。その飯場には、窓ガラスはあっても、壁は一枚のうすい板ですから、風や雪が隙間から遠慮なく入り込みます。

 あるとき、朝起きてみると、へやの中に雪がうすく積もっていることもありました。余りの寒さに、同胞たち二人で抱き合って毛布をかけて寝ようと思いましたが、ガタガタふるえて、とうとう一晩中ほとんど眠れないことがありました。

 川南造船所とはいうものの、私たち朝鮮人徴用工の仕事は、主として土方仕事で、道路づくりと防空壕堀りでした。毎日がきつい仕事の連続でしたが、太平洋戦争が苛烈になるにつれて深夜の一、二時まで働かされて、全く牛馬のようにこき使われました。作業の監督は、木刀を持ち軍服を着た日本人軍属が当たっていましたが、時には現役軍人が来てきびしく指揮をとっていました。今思い出してもつらかったのは食事のことです。初めは米が三分の一ぐらいで麦や高粱(こうりゃん)がはいっていたのですが、しまいには水のやたらに多いおかゆだけが三度の食事になってしまいました。しかも、深夜まで働かされて、ほとんどまどろむ間もなくたたき起こされ、早朝五時から作業の命令が出るものですから、立ったままでその水がゆを飲み込むという過酷な毎日でしたから、さすがに若い朝鮮人たちも見る見るうちに全身衰弱していきました。

 その上、食事が遅いといっては木刀で叩かれるわけですから、朝鮮人徴用工のくらしは地獄の明け暮れでした。

 

 ある時、横穴式の防空壕堀り作業中、突然落盤事故が発生し、私と一緒に働いていた仲間、三十歳ぐらいのたくましい男だったが、その下敷きになってたおれ、意識不明になりました。驚いた私たちは一斉に駆け寄って「すぐに病院に連れていこう」と言ったところ、日本人の現場監督が憲兵を連れてきて、大声でどなりました。

 「このくらいで死にはせん。さあ仕事だ、仕事だ!」

 「このまま放っておいたら死んでしまう!」

と、私たちもやり返しました。

 ところがその監督は鬼のような顔つきになって、私たちを睨み付け、「なに、コノヤロー、キサマら、朝鮮人のくせに! 生意気なことを言うと、ブッ殺すぞ!」とおどしたのです。私たちは、ほんとうにはらわたが煮えくりかえる思いで、涙を流しながら、そのまま作業を続けさせられたのです。

 また、ときどき兵隊や憲兵たちの詰所に引っ張られて行き、そこで棒で殴られ、ビンタをくらい、ひどい制裁を受ける者も大勢いました。なかには顔が赤くはれ上がるなどなぐられる者もいました。

 

 また、ある晩のこと、夜中に私の枕元で、忍び泣くような男の声を聞いて、目が覚め、起き上がりました。同じ部屋で寝ていた二十五、六歳の同胞の青年でした。何だか恐ろしい夢でも見たものか、うなされているようでしたので、体を揺り動かして静かに聞いてみると、目を覚ました彼は、まだ泣きじゃくりをしながら私に語ってくれました。「自分は朝鮮から連行されて日本にやって来て、十日ぐらいだ。朝鮮のいなかの貧しい農家の者だが、両親とも年老いており、一家を建て直すために、ある娘と結婚した。それが一週間もたたないとき、妻と野良仕事をしていると、突然日本の警察官と朝鮮人の係員がやってきて、私を無理やりに捕まえてトラックに乗せようとした。ちょうど妻は私と少し離れたことろで仕事をしていたので、別れをするために、三十分でも十分でもいいから家族たちと別れを惜しむための時間をくれ、と哀願した。また、なぜこんなに奴隷のような仕打ちをするのか、と抗議した。しかし彼らは『これは軍の命令だ。朝鮮人のくせに生意気なことをいうな』と、はげしい剣幕でおどしつけ、そのまま妻や家族たちと別れの時間も与えられず、後ろ髪ひかれる思いで、そのままトラックに乗せられて役場へ。そこに集められていた同胞の青年たちとひと塊にされて、釜山に運ばれ、日本へ運ばれてきた。そして香焼島へ送りこまれてきた。年老いた両親は、あの可愛い妻は……別れの時間も与えられず……いまごろどうしていることか。それを思うと、はらわたが引きちぎられるような気がする」。

 こういってさめざめと泣くその青年に対して、私はまったく慰めることばを知りませんでした。その話を聞きながら、私もはるかな故郷の両親を思うと、私も身につまされて、男泣きをしていたからです。そして激しい怒りがこみ上げてくるのを、どうしてもおさえることが出来ませんでした。

 

 なぜ朝鮮人は、こんなにひどい目にあわなければならないのか。朝鮮を植民地化した日本帝国主義政府は、朝鮮人など、人間として認めていなかったのです。国を奪い、ことばを奪い、姓名さえも奪った日本政府は、私たちの朝鮮人同胞を日本に強制連行し、はかり知れぬ差別、抑圧、搾取、強制労働にたたきこんだのです。私たちが、香焼島で『地獄の苦しみ』を味わっていたとき、日本全土では二百万以上にのぼる同胞たちが、徴用、徴兵で日本に強制連行され、奴隷のようにコキ使われていたのです。最も危険なところ、最もはげしい重労働を必要としてるところ、最もつらく、きびしい作業現場に、朝鮮人を投げ込んで、酷使する。死んでも消耗品扱い。これが日本のやり方でした。みんな二十歳以上の青年、壮年たちでしたが、それ以下の者も多数いました。『亡国の民』として植民地の惨禍をこうむった同胞たちは、日本敗戦後によくわかったことでしたが、長崎市だけでも約三万人に達していたのです。

 私は次第にこのままでは自分の生命をとられてしまうのではないか、こんな強制労働で死にたくない、何とかしてこの香焼島から逃げださなければならない、そして、殺されるよりも生きつづけたい……と、強く考えるようになりました。

 香焼に連行されて来て八年が経過しました。

 

 やがて、私はあの『運命の日』、八月九日を迎えることになります。

 三日前の八月六日にはアメリカ軍が広島に原子爆弾……当時は、新型の大型爆弾と呼ばれていたという……を投下して広島の町は壊滅したということなどは、私たちにはほとんど知らされていなかったのですが。

 その日の早朝、同僚の若い韓さんと相談して、勇気を出して香焼島の波止場へ行きました。そこにいる守衛に向かって「長崎にいる友人にぜひ会わなければならない急用ができたから……」と、熱心に頼み込み、とうとう検閲をうまく切り抜けて、船に乗り、長崎の大波止桟橋に向かいました。まぶしい真夏の太陽、長崎の海をとりまく緑の山なみ、青い空、私は感激に胸ふるえる思いで、大波止桟橋に下り立ってから、町に出ました。時計など持っていなかったのですが、多分八時ごろだったと思います。

 現在の長崎駅前付近は、立派な商店街になっていて、飲食店、みやげもの店、喫茶店、飲み屋、ホテルなどが立ち並んでいますが、あのころは、駅前全部が商店街ではなくて、商店は前の方、電車軌道に面したところに、数軒あるだけで、その背後の土地は、建物疎開のためだったと思いますが、全部空き地になっていました。

 韓さんと二人で、長崎駅付近まで行ったことろ、空襲警報のサイレンが鳴りましたので、駅前の電停のところで、電車のくるのを待っていました。とても暑い日で、時刻は十一時ごろだったと思います。

 すると間もなく、変な爆音が聞こえてきました。どうもふだんのB二九の爆音とは違うような感じです。

 まぶしげに、韓さんと二人で空を仰いでみると、長崎市の北の方にある、ガス会社の真上あたりに、白い煙の線を、二、三本スーッと曳いているのが見えるのです。

 私は周囲に用心しながら、そばの韓さんに朝鮮語でいいました。「ウゴ・スン・チョッキ!」(こりゃ敵機だ)。

 韓さんもすぐに朝鮮語で答えてくれました。

 「何か音がおかしい。避難しなくては」。

 言い合わせたように、二人で大浦の方へ、四、五メートルも駆けだした、その瞬間です。いきなりピカッ!と、実にものすごい閃光が、目の前を走りました。

 「やられた!」と思って、線路の上にうつ伏せになったように思いましたが、うつ伏せになる前に、大地にたたきつけられたような気がします。というのは、一瞬、気が遠くなって、意識不明でよくわからなかったからです。

 それから、おそらく十分余りたったころでしょうか、韓さんが私を揺り起こしてくれました。「李さん、李さん、どうしたんだ、どうしたんだ」と、朝鮮語で大声で叫んでくれたので、われに返ったのです。

 やっと私は、線路の上に、力なくすわりなおしました。気がついてみると、左の腕が二倍に腫れ上がり、体のあちこちに大火傷をしていました。それから急いで周囲を見回すと、町中が赤黒い埃や煙で暗くなっていて何が何だかさっぱりわかりませんでした。それがたった一発の原爆のもたらした大破壊だと知ったのは、もっと後のことだったのです。

 韓さんも全身血まみれなのに、私を抱えて「しっかりせんね、ここで倒れたらいかんよ。どこかに避難しなくては――」と勇気づけてくれました。その必死の介抱で、私はよろよろと立ち上がりました。韓さんの肩に手をまわし、からだを支えてもらって、みんながぞろぞろと避難していく駅前の山の墓地の方へ、無我夢中で逃げました。ぐずぐずしているとどうなるかわからない、という恐怖の念が私たちを包んでいたからです。逃げていく途中で、私たちは何十人もの負傷者があちらこちらに倒れ、あたりが血で真っ赤になっているのに気づきましたが、どうすることもできませんでした。山を登っていくと、一抱えもある大きい松の木が、根元から折れて倒れており、墓石や石塔などもほとんど倒れているのを見て、爆撃の恐ろしさに足がふるえました。墓地には、二、三十人の負傷した市民たちが集まっていましたが、ほとんど着の身着のままで、全身怪我や火傷で、とても言葉では言い表せないほどのひどい姿でした。それでもみんなは同じ負傷者たちということで、無言のうちにも、いたわりの慰めの気持ちが、そこには見られました。

 ところが、驚くべきことが起こったのです。

 それまでは緊張していて、余り感じていなかった体のあちこちの痛みが急におそってきたために、全身が猛烈に痛みだしたので、思わず私が「アイゴー、アイゴー、アイゴー」と悲鳴をあげたところ、どうしたことか、それまで私たちの側にいた日本人たちが、急に私たちの側から離れていくのです。

 あわてて私は自分の姿をもう一度ゆっくりと眺めますと、戦闘帽の下の顔面や、肩から腕、腰にかけて、左半身が火傷で赤黒く腫れ上がっており、腕は依然として二倍ほどに火ぶくれしているのです。きっと恐ろしい形相だったことでしょう。日本人たちが怖がるのは当然だと思いました。しかし、よく考えてみると、日本人たちは、私が朝鮮人だから、側にいることをいやがっていたのではないか――差別だ、という思いを抑えることができませんでした。

 この墓地で私たちは何時間過ごしたか、腕時計など持っていない私には――持っていても完全に破壊されていたことでしょう――、よくわかりませんでしたが、そのうちに私はまた倒れてしまいました。若い韓さんは、何度も私に「李さん、しっかりせんね。ここで死んでどうするね。朝鮮人は二人だけだよ。だれも助けてはくれんよ」と言って、しきりに励ましてくれましたが、このときの心細さと、力強さを今もよく覚えています。

 

 夕方の七時ごろだったと思いますが、警防団の人たちがやってきて、負傷者は勝山小学校に設けられた救護所に集まりなさいといいましたので、みんな助け合いながら、よろめきながら歩いていきました。重症者はみんな担架で運ばれましたので、私たちも運んで欲しいと、泣きながら頼みましたが、「君たちは若いから歩け」と言われました。その言葉の裏には、「お前たち朝鮮人を、だれが運んでやるものか」という冷たい気持ちが読み取れましたので、私たちは、こんなときまで朝鮮人差別の仕打ちをする日本人被爆者たちの、朝鮮人蔑視の態度に、はげしい怒りを抱きました。それでも私たちは、歯を食いしばって、歩き続けました。

 勝山小学校――無論、当時は国民学校と呼ばれていました――にたどり着くと、負傷者はすぐに学校の下にある防空壕に入るように、言われました。内部は真っ暗で、そこに何十人という負傷者が、ぎっしりとすし詰めになっていました。

 「とうちゃん」「かあちゃん」「痛いよう」「助けてよう!」というような、うめき声や泣き声、悲鳴とも怒声ともわからないようなざわめき。「戦争はこれからどうなるのだろうか」「長崎の町は、すっかり焼け野が原になってしまって……」など、ひそひそと話し合い、これからの運命を語り合う人々。

 その夜は、ほとんど一睡もできませんでした。暗闇の中の地獄絵図――そんな思いが私の胸をしめつけていました。

 日本と朝鮮の歴史を変えた、一九四五年八月九日は、このような『長い一日』でした。

 

 寝るに寝れなかった一夜が明けて、翌朝、運動場へ上がってみると、あっと驚く光景がそこにありました。水道のところに、何人もの人がばたばたと倒れて死んでいるのです。

 負傷者でも、重傷の者には水を飲むことが禁じられていたのに、最後の力をふりしぼって、這いだして来て水を飲み、安心して死んでいったものでしょう。

 一発の爆弾の恐ろしさを深くかみしめて、私はそこに呆然と立ち尽くしていました。

 やがて韓さんは、「自分は李さんよりも若いし、比較的元気だから、香焼島へ帰って、友だちに自分たちのことを知らせたい」といって、名残を惜しみながら、小学校を立ち去っていきました。

 そのうちにトラックがやってきて、私たち負傷者は諫早の救護所へ連れていくという。

 長崎を離れるということに不安はありましたが、とにかく治療してもらえるならば、一刻も早く行きたいという気持ちもあり、トラックに乗せられるまま、私たちも小学校をあとに諫早へ向かいました。