2015-01-01から1ヶ月間の記事一覧

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(24)

孫式恒さんのインタビューは以上である。最後に同席したファミリーに聞いた。 ――お母さんと一緒に行かれた妹さんは、きょうはいらっしゃいますか? (孫さんの妹・孫淑蘭)はい、私です。そのとき、私は6歳でした。母に電柱の上の方を見なさいといわれました…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(23)

――故郷に帰りついたのは、1946年の春節(旧暦の正月)ですね。家族と再会したときのもようをお話しください。 (孫)当時、家にいたのは母、妹、そして妻です。日本軍に捕まる前に結婚して、2年間、待っていてくれました。家族はたいへん喜びました。それに…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(22)

当時、天津でも青島でも国民党政府が「労工招待所」を置き、そこで国民党軍に入ることを強要した。それがいやな労工たちは、脱出を試み、共産党の勢力下にある解放区に逃げ込んだ。このあたりのことは、孫式恒さんの体験と合致する。しかし、「苦難を訴える…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒の証言(21)

帰国したときのことについては、孫式恒さんは、次のように語っている。 私達は軍艦をおりて、ようやくこの軍艦に3000人以上が乗っていたことを知った。その中に男装の日本人女性が2人随行していた。奇遇にも北京の2700数名の売国奴の保安隊でも日本に連行さ…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(20)

[孫さんは、続けて中国人労工の待遇改善を訴えてデモをおこなったことを語り始めた。] (孫)日本が戦争に負けた後、松本市の市街をみんなでスローガンを叫びながらデモしました。手にはぬかのマントウを持っていました。アメリカ人に見せようとしたのです。…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(19)

次に、日本の敗戦後に亡くなった副隊長のことについて聞いた。インタビューの初めに中国隊の指導部のことを聞いた際、孫式恒さんは、覚えていないと言っていた。 ――日本の敗戦後、副隊長の馬盤根という人が亡くなっています。死亡診断書では、1945年10月11日…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(18)

――孫さんの回想録に頭の狂った大学出身の八路兵のことが出てきましたが、その人のことについて詳しく教えてください。 (孫)どの大学かは知りませんが、この人は文化があり、大隊部で仕事をしていましたが、この人は回りの人と違っていました。他の人は日本…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(17)

――長野県での作業内容についてお聞きします。神奈川県と同じように砂利の採取・運搬でしたか。 (孫)違います。砂利や砂の採取ということは同じですが、神奈川では機械からとったが、長野では地面から採取しました。 ――長野県ではどんな工事でしたか。 (孫…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(16)

次に聞いたのは、日本で亡くなった人々の遺骨はどうなったかという点である。 「中国殉難者名簿」(1960年2月、中国人殉難者名簿共同作成実行委員会)では、 (与瀬作業所) ・「外務省報告書」によれば、いわゆる“契約”人員二九六名、乗船人員は二九二名で…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(15)

劣悪な労働と生活の環境に耐えられず、逃亡を図る事件も起きている。孫式恒さんは、「回想録」で次のように触れている。 ある仲間が空腹に耐えきれず、食べるために逃げ出した。別の山の頂上に登ったところを日本人に捕まって連れ戻され、刑務所に入った。 ―…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(14)

熊谷組がまとめた与瀬作業所での中国人の「公傷病者調書」。表の左から2人目のところに孫建宗の名前があり、けがの程度は「重傷」となっている。 ――ここに熊谷組が作成した公傷病者調書があります。孫さんの名前も載っています。孫さんは、頭部に1カ月の重…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(13)

強制連行は35企業が行い、全国135事業所に上る。その多くのところで非人間的な生活環境と極端に少ない食事、重労働を強いられ、たくさんの人が命を落とした。命を奪われなくとも病気やけがに苦しみ、まともな診察・治療をうけることはなかった――というのが日…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(12)

――作業所の労働や生活環境について話してください。 (孫)住んだ家は、木造で、隙間だらけで、風が吹き込むようなところです。食べたものは豆でつくったビン(水で粉を溶いて焼いたもの)です。それから腐ったトウモロコシの粉を蒸したもの。コメの糠でつく…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(11)

ここでいったん聞き取りの再生を中断し、与瀬作業所のようすを孫式恒さんは「回想録」でどう語っていたかを見よう。 神奈川県の山の中の川のほとりの熊谷組与瀬作業所と呼ばれるところに到着した。4月中旬(旧暦の3月末)のことである。 日本に着いた時、中…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(10)

[中国人寮の前で5人の中国人の集合写真を見せた] ――この人たちを覚えていますか。 (孫)覚えていません。70年前の顔ですからね。 ――隊長や副隊長らしいのですが。 (孫)さあ。 ――孫さんは、寮の近くで作業をしたのですか。それとも離れたところでしたか。 …

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(9)

――先ほど車に石を積んだと話されましたが、(数人でトロッコを押している写真を見せて)このようなものでしたか。 (孫)このようなものでした。 ――(トンガと呼ばれる道具の写真を見せて)当時、現場で使われていた道具ですが、見たことはありますか。 (孫…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(8)

――しばらく神奈川のことをお聞きします。(現在の相模湖の写真を見せて)いまは、このようになっています。 (孫)センムー(相模)。 ――そう、相模湖。まだ、水没していないときの写真です。このあたりはダムができてから水没して、人は住めなくなりました…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(7)

1941年頃撮影されたトロッコで土砂を運搬する工事現場。残土は、ダム下流右岸側の現在の変電所・流芥置き場に使用している広場を埋め立てた。中国人が与瀬に来たのは、1944年4月であるから、この写真の作業員は、日本人か朝鮮人である。(『教育文化№15 1998…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(6)

湖底に沈む前の勝瀬 孫式恒久さんは、神奈川県のダム工事で採石・運搬をしたという。そこで、相模ダムができる前の写真を見ていただいた。写真は相模ダムの上流部・「勝瀬」地区である。115世帯が移転した。川の中州を横切る橋が見えるが、二瀬越橋。孫さん…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(5)

インタビューの冒頭、名前と住所、同じ県の者で一緒に与瀬作業所に連行された人の名前を聞いた。熊谷組の名簿では、同県出身者は8名。このうち、孫さんが挙げたのは、張福坤(名簿の張福奎か)、孫連海、靖洪文の3名である。 ――日本に連れて行かれた地名は…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(4)

孫式恒さんの「回想録」は、個人の記憶であるから記憶違いなども含まれてはいるであろう。しかし、被害者本人の貴重な証言である。まずこの証言にしっかり耳を傾けるべきだろう。そのうえで、企業が作成した「就労顛末報告書」の個々の記述について確かめる…

熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(3)

今年の清明節(4月6日、中国では祖先の墓参りをする)に中国人民抗日戦争紀念館(北京市)が「連行された中国人の名簿」をインターネットで公開した。孫式恒さんの末娘の孫金義さんがその3万4千人を超す名簿の中から父の名前(事業場番号57 株式会社熊谷組…