2013-10-01から1ヶ月間の記事一覧

名古屋―平岸連送(2)

名古屋華人平岸~移動連送費用内訳明細書の2ページを見よう。 29日に「本店ヨリ送金 4000円」とある。荒金係長は、愛知県を発つとき「諸経費概算持出金」(仮払い)1000円を受け取っていたが、青森での手持ちが無くなったため地崎組本店に金を請求し、送金さ…

名古屋―平岸連送(1)

GHQ/SCAP LS23672のなかに「名古屋華人平岸~移動連送費用内訳明細書(但シ青森~平岸間経費)」があった。 地崎組(現・岩田地崎建設)は、1944年から45年にかけて中国人を愛知県の大府飛行場(東海市と大府市にまたがる丘陵地)で強制労働させたが、45年6…

地崎組東川事業所日誌 巡回検診と体重検査(2)

東川事業所では、労務報国会による巡回診療も行われている。11月15日の日誌には、「労報より派遣の大学解剖学博士平井氏及看護婦二名の来所ありて午前八時半より全員検診ありて患者はそれぞれ治療を受けたり」と書かれている。「労報」は、労務報国会の略称…

地崎組東川事業所日誌 巡回検診と体重検査(1)

巡回検診と体重検査 極寒の地で水につかっての遊水地工事で、地崎組は連行してきた中国人の生命と健康にどう責任を果たしたのだろう。 地元の医師による往診がたびたびあったこと、ときには注射もしていることが日誌には記述されていることは、各月の日誌を…

地崎組東川事業所日誌 逃亡事件の発生

逃亡事件の発生 東川事業場報告書によれば逃亡事件は2件起きている。その一つが昭和20年1月7日の3名逃亡である。 「滝川町に於いて発見現場に帰舎せしめたり。逃走の原因は三名共に怠惰の性質にて稼働態度甚だしき不良なる為他の影響を恐れ小隊長は常に…

地崎東川3-4月の日誌 作業場は戦場(2)

山崎指導はさらに、22日午後6時50分の点呼後班長を集合させて、中国勤労隊員の使命を強調し、「班長中心ノ突撃作業」を求めた。そして、翌23日、「此ノ四五日出勤稼働率ノ目醒シキ上昇ヲ賞シ、出勤六日以上ノ者ニ対勤労酒ヲ配給シ一日ノ休養ヲ取ラシム」とニ…

地崎東川3-4月の日誌 作業場は戦場(1)

3―4月の日誌 「作業場は戦場」 3月17日、日誌は「点呼後、隊長、副隊長、中隊長三名集合シ、能率増進計画に対シ山崎指導長ヨリ別紙計画通リ説明。十九日ヨリ出勤率を期待ス」と中国隊指導部に強く出勤率向上を求めた。 18日には副隊長立ち会いのもと医師…

地崎東川事業場日誌/1-2月 「氷点下25度の作業」

1-2月「氷点下25度の作業」 [2月15日]第四小隊サイホン根掘リハ凍水甚シク故中食ヲ理用シテハッパ三ケ所ニ掛テ切開ス。 [2月20日]今朝ニ至リ冷下二十三度、隊員ノ凍傷ノ恐レアルヲ以テ出働八時。幹線排水掘、玉石採取、石垣積ノ作業ニ就労セリ。 [2月21…

地崎東川事業場日誌/12月 「凍傷患者を診療」 (つづき)

12月の作業中の事故は、次のようなものが起きている。 [12月12日]事故。一〇九番作業中飛石の為負傷セリ。 [12月13日]本日作業中、一六五番ツルハシニテ左手裂傷シ午前十時帰舎。加療ナシ休養セシム。 作業は、12月31日午前中まで続けられ、1月1~3日は正…

地崎東川事業場日誌/12月 「凍傷患者を診療」

遊水池工事は、春の水耕前に完成が求められていたから、真冬の排水路工事となった。砂利採取はときには水に入っての作業となった。12月11日の日誌は、「午前七時二〇分出働。本日一二三名。幹線排水。第一小隊玉石取。寒冷ヲ忍デ隊員一同意気軒昂なり」と書…

地崎東川作業場日誌10-11月(2)

11月下旬の作業は、第2遊水池の「小間割作業」である。発電所から流れてくる冷たい水をためて、温める溜め池掘りである。小さく区割りして、作業を進めることからそう呼んでいるものと思われる。日誌には「小廻作業」という言葉もでてくるが、同じ内容であ…

地崎東川作業場日誌10-11月(1)

10―11月の日誌 「小間割作業能率上がり」 東川では、11月5日から6日にかけて雪が降り、7日はみぞれが振っている。この3日間は、作業はとりやめになった。この間に休養・入室者は76人(5班は3名)とわずかながら増えている。 天気が回復し、作業が再開…

地崎組東川事業所日誌の記載事項について(3)

事業所日誌の点呼表には、「休養」者数と「入室」者数が書かれている。休養者は病気で仕事に出られない者のうち所属班のベッドで寝ている者、入室者は別室に移された者をいうのであろう。入室者は休養者に比べてより重症であろうが、休養者が入室することな…

地崎組東川事業所日誌の記載事項について(2)

日誌の記載内容をもう一日見よう。 [昭和十九年十月二十九日日曜日雨天] 起床 昨夜来ノ降雨ノ為午前五時四十五分 朝食 午前六時二十分 朝の行事 降雨ノ為行事中止。舎内ニ於テ点呼ヲ行ウ。就労一時中止スルモ止ムル見込ナク午前午後共ニ舎内ニ於テ日本語及作…

地崎組東川事業所日誌の記載事項について(1)

地崎東川事業所の日誌は「記事」と「点呼表」からなっている。「記事」には、「起床」「朝食」「朝の行事」「就業」「事故」「閉業」などが書かれている。それらの記事がどのようなものであるか、見てみよう。 [昭和十九年十月二十八日 曇天] 起床 午前五時…

地崎組東川日誌について(3)

東川作業場の日誌が、初めの1カ月が欠けていることは、中国から連行されてくる過程で生死の境をさまよった中国人らが作業場でどのような扱いを受けながら暮らしたか明らかにならない問題を指摘したが、もうひとつ気になることがある。 地崎組東川の事業場報…

地崎組東川日誌について(2)

第2次連行が新たな契約に基づくものではなく補充としておこなわれたと事業場報告書は書いている。契約数が空欄であること、第1次で多数の死亡者を出した原因を地崎組が調査し、塘沽港で華北労工協会が適切に労工を管理しなかったとし、責任を追及している…

地崎組東川日誌について(1)

中国人強制労働現場のひとつである北海道東川の地崎組東川事業所の実態について、地崎組の「日誌」から迫ってみたい。 地崎組東川事業場について① GHQ/SCAP文書の中に、「昭和拾九年 日誌 地崎組出張所」と書かれた日誌が含まれている(BOX.1308 LS-23665、2…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(6)

調査報告書「愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働」で落としてはならないのが、「伊屯武華」出身者の木村玲子さんの一文です。「戦時中、朝鮮人や中国人がたくさん働かされていたことは、子ども時代に・・・悲惨な噂として耳に入っていました…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(5)

大府での調査もボリュームアップしています。なかでも目を引くのは、114ページの「その後の調査で分かったこと」です。中国人が寝泊まりした「みかん畑の大きなテント」の位置をつきとめ、その近くの土地所有者から「ここで中国人がテントで生活している…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(4)

調査報告書『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』の特徴の一つは、強制連行問題の中国側研究者・河北大学の劉宝辰教授の被害者調査報告が掲載されていることです。劉教授が西松建設の安野事件で被害者の掘り起こしにとりくみ、日本での裁判…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』出版(3)

報告書新版では旧版になかった写真が多数掲載されています。この数年の調査のなかで得られたものでしょう。なかでもたいへん興味深いのが、38ページの天津労工紀念館に安置されている遺骨箱の写真です。この写真と、同論考の末尾に掲載されている「地崎組石…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』出版(2)

南氏の「概要について」で最も注目すべきは、「占領軍国際検察局(IPS)による地崎宇三郎の戦犯訴追問題」でしょう。 論考は、「国際検察局(IPS)は地崎組の二代目地崎宇三郎を中国人強制労働を訴因の一つとして訴追する準備を行っていた」として、IPS文書№…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(1)

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』という調査報告書が出版されました。発行は、「愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会」。 〔本書の主な内容〕 ・大府飛行場中国人強制連行・強制労働問題の概要について 南守夫(愛知教育…

赤平の中国人強制連行のまとめ

これまで私が被害者本人から聞いたり証言録を読むなかで、中国人の寮は人里離れた山奥にあり、社会から隔離されてきたという印象をもっていました。ところが北海道赤平市では「赤平合衆国」と地元でいわれるほど多数の米軍捕虜、朝鮮人、中国人が強制連行さ…

井華赤平の馬書児さんの証言(3)

馬書児さんの証言を続けます。 赤平はとても寒く、路上に降り積もった雪はとても深い。人の背丈より高く、ちょっと油断すると雪のくぼみに落ちる。私達が履いている靴はみなぼろぼろで、縄で縛って履いた。ある時トロッコを押していた。とても寒いため、車に…

井華赤平の馬書児さんの証言(2)

井華(住友)赤平事業所で強制労働をさせられた中国人・馬書児さんは、働いていた様子を次のように語っています。 私たちの寮は木造で、屋根は石綿のスレートだった。大部屋で、1軒に1つの小隊が住んだ。小隊長は何文波。食事は1日3度で、豆の粉でつくった…

井華赤平の馬書児さんの証言(1)

『二戦掳日中国労工口述史』には、井華赤平(炭鉱)に連行された中国人10人の証言が掲載されています(「掳」はさらうの意)。そのうち本人の名前もしくは証言者があげている隊長名やいっしょに連行された人の名前が企業が作成した名簿と一致している場合…

井華赤平の李清文さんの証言(3)

井華赤平の李清文さんは、逃亡した仲間がリンチを受けたことも証言しています。 赤平の冬はとても寒い。昼間でも綿の服を着ていなければ我慢できないほどだ。腹一杯にならなくて、着る服は温かくなく、なぐられ虐待された。だから脱走しようとする者がいた。…

井華赤平の李清文さんの証言(2)

私達は"中華寮"に住んだ。そこ家も木造だ。私達の寮には大きいストーブが六つあった。大部屋で、寝床は1列に長く、床にはござが敷かれていた。その上に寝て、体にかけるのは南兵営で渡された掛け布団だ。 仕事を始める時、班長が8人を1つの坑道に引率した。…