2013-06-01から1ヶ月間の記事一覧

強制連行の基地となった塘沽港(7)

塘沽の万人坑跡には1992年8月に記念碑が建てられています。碑には、万人坑は日本が労工を虐殺し骨を埋めた所であること、死者の名前も不明で、人数もかぞえられないほど多いこと、日本は国内での労働力の不足を補うために何度も日本に連行したことなどが書か…

強制連行の基地となった塘沽(6)

塘沽新港で少年工として働いていた左文治さんは中国のメディアで、万人坑記念碑が建っている場所から北に約600メートル離れた地点に万人坑はあったと語っています。 「万人坑は実際には鉄道を建設した後にできた。集中営に近く、日本軍が死体を集中的に埋葬…

強制連行の基地となった塘沽港(5)

[地崎函館の被害者・張瑞英] 私達が連行されたところは、海岸近くの“冷凍会社”だ。そこはすべて木造で、壁さえ木だ。家の中は大部屋で、板で寝床が作られていた。私達が入った時、そこには最低でも200、300人いた。 気候はすでに寒くなっていて、私達は綿入…

強制連行の基地となった塘沽港(4)

「地崎函館」の被連行者(「強制連行は死のロードだった」でとりあげています)も、この塘沽の収容所に入れられていました。かれらの証言をみましょう。 [劉智功] 塘沽駅に着いて、列車をおりて私達は南へ歩かされた。約2里の道を歩いた。道の両側は海で、南…

強制連行の基地となった塘沽港(3)

1970年の港務局報告書は、万人坑について、およそ、次のように報告しています。 1955年、政府は民間科に"万人坑"の道路寄りの遺骨を移すように命じた。この作業に従事した労働者は、「人の背丈の半分も掘らないで、"取りきれない"ほどたくさんの骨が出てきた…

強制連行の基地となった塘沽港(2)

天津塘沽港務局は、「塘沽労工収容所(集中営)調査報告」(1970年6月9日付)をまとめています。 「私達は、座談会を開き、また、関係者を訪問し、質問することによって、労工協会、労工収容所、および日本人がつくった塘沽新港の“万人坑”に関する調査を進…

強制連行の基地となった塘沽港(1)

天津の塘沽(たんくー)港は、日本が中国各地から略奪した石炭や鉄鉱石、綿や食糧の一部を日本に運ぶために建設した港です。内陸部にあった港は、老朽化していて使い勝手がわるいため、日本は新港を建設することにしました。 1938年、日本の内務省は河北沿海…

山西省の捕虜収容所と強制連行(5)

[鹿島御岳事業所名簿510番の張考生] 山西省左権県石匣郷林河村の農民です。1944年の旧暦5月12日、朝早く起きて、山頂の自分の耕作地に行き、ロバに斜面の草を食べさせていると、そこへ日本軍が現れました。洞窟を利用して住居としていた張は、父と祖父のいる…

山西省の捕虜収容所と強制連行(4)

[閏生林] 山西省五台県陳家荘郷陡寺村の出身で、八路軍に参加。原平市で日本軍に包囲され、10数人が捕虜になり、太原捕虜収容所に連行されました。 ▽捕虜収容所には、一般民衆、山西軍、八路軍、中央軍が収容されていた。寝るところは木造で、屋根は人の字形…

山西省の捕虜収容所と強制連行(3)

山西省から日本に連行された人は636名ですが、そのうちの214人が長野県の鹿島御岳出張所に連行されました。主には、発電所建設にともなう工事に使われました。 何天義主編『二戦虜日中国労工口述史』には、山西省から鹿島御岳に連行された10人の証言が載って…

山西省の捕虜収容所と強制連行(2)

日本に連行された中国人の出身地について西成田豊『中国人強制連行』は、山西省出身者は636名、日本への被連行者にたいする比率は1・9%と分析しています。 中国人を日本へ連行する際の実務的な面を担ったのが、華北では「華北労工協会」でした。北京、天…

山西省の捕虜収容所と強制連行(1)

最近、1944年~47年ころに中国山西省にいたという人たちから話を聞きました。「山西省から日本に強制連行された中国人がいたことはご存じですか」とお聞きしましたが、ご存じの方はありませんでした。といっても、それで山西省では日本への強制連行がなかっ…

裁かれた済南新華院(10)

最後に元日本兵の証言を見ましょう。第59師団の高級副官であった広瀬三郎の証言です。 <一九四四年二月下旬軍命令により師団司令部は済南に移駐し四月上旬軍の河南作戦の為め出動の后従来軍に於て管理してゐた捕虜収容所(別称新華園)を師団が実質上管理す…

裁かれた済南新華院(9)

済南市人民検察院副検察長・劉献林の回想は続きます。 最高人民検察院は“万人坑" を掘り起こすために中国人民解放軍軍医大学の法医学教授・陳康顧を遺骨鑑定人として招聘した。同時に北京映画製作所の孫技師を招聘して実際に撮影をおこなわせ、検察官・王広…

裁かれた済南新華院(8)

中華人民共和国の裁判では、戦犯に問われた日本人の供述書、中国人被害者の訴え、さらにさまざまな資料集めもおこなったようです。 済南市人民検察院は、1954年に済南新華院がつくった万人坑の遺骨発掘をおこない、その調査結果を裁判資料として提出していま…

裁かれた済南新華院(7)

第59師団の藤田師団長はこうも語っています。 <私ノ六月一五日ノ訓示ニ起因シ陣地構築ニ使用シタル済南俘虜収容所ノ俘虜六〇〇名以上ヲ六月一五日以後ニ於テ教育ニ使用シ刺殺セシメマシタ此事実ハ私ガ蘇連ニ抑留中蘇連調査官ガ私ニ対シ「済南ニ於テ一九四五…

裁かれた済南新華院(6)

これまで見てきた裁判は、国民党政府のもとでおこなわれたものですが、その10年後、中華人民共和国になったもとでふたたびこの捕虜収容所が裁判に登場しかけました。日本の敗戦によりソ連軍の捕虜となり、1950年7月に中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に勾留…

裁かれた済南新華院(5)

(『戦争犯罪裁判概史要』のつづき) 第四三軍司令部関係については、五件五名が起訴され、審判の結果は、死刑一名を含む有罪二名、無罪三名であった。軍司令部付の中尉は、済南浮虜収容所長として逃亡せる俘虜三名を銃殺し、また病気の浮虜一名を薬殺した外…

裁かれた済南新華院(4)

前回見た青井真光裁判は、済南市に設けられた第二綏靖区司令部の審判戦犯軍事法廷で行われました。この軍事法廷でおこなわれた裁判の概要について、1973年8月、法務大臣官房司法法制調査部が『戦争犯罪裁判概史要』という報告書を作成しています。 * 山東省…

裁かれた済南新華院(3)

済南の捕虜収容所の所長は、敗戦後、国民党政府のもとで戦犯裁判にかけられました。「中国で裁かれた旧日本軍捕虜収容所」(和田英穂)という論文に裁判の概要が紹介されています。1946年6月30日起訴、同年10月4日判決。被告は青井真光中尉で、44年7月10…

裁かれた済南新華院(2)

済南新華院に入れられた被害者の話に耳を傾けましょう。北海道の倶知安鉱山川口組脇方出張所で働かされた劉作祥(川口組名簿54番)。彼は、新華院に1カ月入れられ、日本に連行されました。 * 私は劉作祥といい、現在の年齢は79歳、山東省高青県花溝鎮竜虎…

裁かれた済南新華院(1)

河北省の「石門労工訓練所」(南兵営)が、捕虜や農民にたいし思想訓練をおこない、「労工」として中国東北(「満州」)や日本に送り出した施設であったことは、<「人間地獄」と恐れられた石門収容所>でみた通りですが、山東省にも同様の施設がつくられま…