2013-09-01から1ヶ月間の記事一覧

井華赤平の田世珍さん(3)

中華寮で1年余り過ごして、日本の投降に至った。私達はようやく労働をやめた。日本が投降したすぐは、私達は決して知らず、日本人も私達に知らせなかった。ただ私たちを働かせることはなく、また私達の服を脱がせ、蒸した。数日感、私達は家の中でぶらぶらし…

井華赤平の田世珍さん(2)

井華赤平で働かされた田世珍さんの証言です。 北海道赤平町の炭鉱で働かされた。そこの労工の宿舎は"中華寮"といっていた。着いたすぐは仕事をせず、10日間休んで、この期間に日本人は私達に日本語を学ばせた。仕事は、昼班と夜班の2班交代で、それぞれ12時…

井華赤平の田世珍さん(1)

井華赤平事業所で強制労働をさせられた233番の田世珍さんが日本に連行された経緯はこうでした。 1944年の陰暦8月7日(新暦9月23日)朝、鍬を担いで畑に水をやりに行った。途中日本兵に遭遇して捕まり、石門警官局第1分所に引っ張られた。第1分所に3日止め…

井華赤平の何洛柱さん証言(5)

私たちの隊の炊事係が厨房でマントウをつくりに行ったときに、新聞紙に包んで持ち帰ってきた。炊事班の班長は毎日新聞を新しいものと取り替えた。ある時、私達は新聞に書かれているのを見た。 "……平和的解決"。それでようやく日本が降伏したことを知った。日…

井華赤平の何洛柱さん証言(4)

井華赤平の何洛柱証言のつづき 日本人は、わたしたち労工を全部で8つの大隊に分けた。私は第3大隊である。各大隊には3人の中隊長がおり、さらにいくつかの班長がいた。私たちは腹が減って我慢できないので、厨房にいって食べ物を貰おうとした。死んでも構…

井華赤平の何洛柱さん証言(3)

私(何洛柱)の坑内での仕事は、穴をあけることだ。穴をあけ、発破をかけた。私を率いた日本人の監督は、三宅という人で、彼は中国東北で何年かいたことがあり、中国語が話せ、中国語を聞き取ることができた。働いていた時、私たちがたいへん疲れて我慢でき…

井華赤平の何洛柱さん証言(2)

井華赤平に強制連行された中国人・何洛柱さんは、日本での虐待を受けた状況を次のように話しています。 炭鉱で住んだところは、木造だった。日本の庶民のほか、朝鮮人も木造の家屋に住んだ。建物は全部木造で、寝るところは大部屋で、雑魚寝した。私たちは30…

井華赤平の何洛柱さん証言(1)

何洛柱が日本に連行されるまで 井華赤平300番何洛柱さんは、河北省徐水県西劉営村出身です。前回紹介した河北省徐水県南留村の劉玉庚さんの隣村の人です。何さんは、1943年、区の幹部の王松林に派遣されて1区の区事務所に行く途中、特務と日本兵に取り囲ま…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(4)

井華赤平46番の劉玉庚さんの証言は続きます。 中国労工のほか朝鮮の労働者もいっしょに仕事をした。彼らも日本人から虐待と苦難を受けた。あるとき、1人の朝鮮の労働者が私に言った。“あなた達は亡国の民ではない。私達はあなた達よりもっと悲惨だ。日本人…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(3)

井華赤平の劉玉庚さんの証言の続きです。 主な食べものは、豆の粉と小豆の粉でつくった小さい渦巻き状のマントー(蒸したパン)で、一日3度出た。春になってから、たまに魚のスープを飲むことがあった。食事も住むところもひどい。住居は木造の長屋で、1つの…

抗日戦争紀念館が強制連行の事業場報告書などを展示

中国广播网は9月18日に「日本强掳中国赴日劳工罪行档案今天在京公布」と報道しました。(http://news.cnr.cn/native/city/201309/t20130918_513637015.shtml) 北京で日本に強制連行された労工に関する「档案」資料がきょう18日に公開されたというニュースで…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(2)

【赤平の炭鉱での労働のようす 劉玉庚さんの証言】 炭鉱についてすぐは、坑内に入って仕事をすることはなく、日本語を学習した。学んだのは、工具の名前など仕事に必要な言葉だった。いまも覚えているのは中国語の"鉄鍬"で、日本語では"スコップ"と言ってい…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(1)

「赤平合衆国」と形容されるほど、朝鮮人・中国人強制連行が多かった赤平市。そのうちの一つが、「井華(住友)赤平」です。そこで働かされた劉玉庚という人の証言を紹介したいと思います。 「井華赤平46番」の劉玉庚さんのプロフィールと日本に来るまでを、…

「北海道学」と中国人強制連行

北海道大学の小田博志さんのHPに「北海道の『民衆史掘りおこし運動』を掘りおこす」という文献表が掲載されています。http://www13.ocn.ne.jp/~hoda/minsyushi.html 北海道における「民衆史掘りおこし運動」について小田さんは、「北見の高校教諭・小池喜孝…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(13)

Ⅴ 平岸油化工場の痕跡 滝川市の友人と日本油化工業跡を探して回った。確認できたのは、 ① 油化工場の施設の一部で、コールタールの貯蔵槽。コンクリートの一部が地表に表れていた。また、少しだがコールタールも見られた(写真) ② 地崎組の飯場の跡 ―である…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(12)

『赤平市史』の平岸油化工場に関する解明は、続きます。 十八、十九年にかけて、平岸の農村地区に巨大な工場建設計画が急速に進められたが、北海道炭素工業と日本油化工業は、その系列は一体のもので、すべて日本油化工業が主体となって進められたものであり…

みかん畑のテントに向かって兄を思う

11日に来日し、12日に札幌市で連行企業・岩田地崎建設と交渉した河北省威県の宋殿挙さんは、14日、愛知県の東海市でおこなわれた「第5回中国人強制連行殉難者追悼式典」に参列されました。 ◎強制労働の中国人追悼 遺族ら飛行場跡訪問 愛知 (しんぶん赤旗2…

戦後補償の新たな展開学ぶ集会 赤旗が報道

しんぶん赤旗が12日に札幌市で開かれた戦後補償問題の新たな展開について学ぶ市民集会を報じました。 ◎戦後補償 新たな展開 札幌で強制労働など学ぶ市民集会 2013年9月14日しんぶん赤旗 「戦後補償問題の新たな展開を学ぶ市民集会」が12日、札幌市で開かれ、…

中国人強制連行被害者遺族、岩田地崎建設と交渉

◎中国人強制連行の被害者遺族 補償求め企業と交渉 2013年9月13日 しんぶん赤旗 第2次世界大戦末期の1944年、中国から日本に連行され、北海道と愛知県で強制労働をさせられ、愛知県の旧大府(おおぶ)飛行場(東海市・大府市)の滑走路拡張工事で亡くなった…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(11)

『赤平市史』の平岸油化工場関係の叙述は続きます。 戦局は、更に厳しくなり、航空燃料の不足も深刻の度を増してきたことから、日本油化工業は、軍の命を受けて、十九年秋から二十年春にかけて、合成油の製造工場を建設すべく作業に入り、北海道炭素工業敷地…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(10)

平岸の油化工場が国策による軍需工場であったことを裏付ける資料として、次のものがあげられている。 (『赤平八十年史』より) ○茂尻砿業所長が、十八年十月二十五日付で本社宛に発信した親展文書 総務部長御中 茂尻砿業所長 廣松揆一郎 当所附近軍需工場新…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(9)

『赤平市史』は、平岸油化工場について詳しく叙述しています。 十七年頃、軍需省の命令で、日本油化工業(本社東一示、工場川崎)は、油化工業生産責任者である千葉三郎代議士を中心に、アルミ製練用の純度の高いピッチコークスの製造工場の計画を進めたが、…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(8)

Ⅳ 平岸油化工場に関する資料 『あかびらふるさと文庫』に戻ります。 平岸油化工場建設のための土地買収の経緯や中国人の強制労働について地主だった伊藤与作氏(平岸曙町)の回想録が収載されています。平岸駅から工場の敷地に引き込み線を設置する工事がお…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(7)

若林勝『ズリ山』を紹介してきましたが、体の底から突き動かされるような迫力で読む者に迫ってきます。 強制連行135事業場を訪ねた野添憲治さんは、赤平住友川口組出張所のリポートで、「この作品は小学校高学年・中学生向けに書いたものだが、同じような…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(6)

『ズリ山』の紹介を続けます。 長屋から遠く離れた空知川ぞいに、にわかにつくったバラックの大きな建物ができていた。しかし、大きいといっても長屋と比べたもので、二八四人を入れるには小さすぎるものだ。畳一枚に二人寝ても、まだたりないぐらいなのだか…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(5)

若林勝『ズリ山』の引用の続きです。 朝鮮人のときは、まがりなりでも、“炭坑夫募集”といったぐあいに、見せかけぐらいはしていたのだが、中国人の場合はちがう。暴力にものをいわせて連れてきたのだ。完全“人さらい・かっぱらい”なのだ。だから彼らは、つか…