2014-08-01から1ヶ月間の記事一覧

相模湖の中国人強制連行(8)

済南新華院に収容された中国人は、ときには新華院周辺で労働をさせられることもありました。朱文斌の場合は、済南洛口橋の南西約3キロの山上に連れて行かれ、倉庫を建てる作業に従事しました。朱文斌は、「地下溝を掘り、地ならしをした。日本に連行される前…

相模湖の中国人強制連行(7)

済南の新華院は、"閻魔殿"とも呼ばれている収容所で、「犯罪者」を拘禁する所です。高い壁に囲まれ、壁の上には電力網が張られていました。その外は鉄条網で、3メートルの深さの堀が巡らされており、さらに角々に監視塔があり、衛兵が四六時中、見張ってい…

相模湖の中国人強制連行(6)

12月10日、日本兵は貨車で朱文斌らを張店収容所に連行しました(張店は、山東省淄博市の市轄区)。この時、捕まえられた人数はさらに増え、240数人になりました。 朱文斌は「収容所に入って縄を解かれた。しかる後、また鎖がかけられた倉庫の中だ。私が閉じ…

相模湖の中国人強制連行(5)

朱文斌らは、その晩、廿村の寒くじめじめしたところに監禁され、深夜に尋問されました。八路軍はどこへ行ったか? 兵器工場はどこにあるか? 紙幣の印刷機はどこに隠しているか?……。知らないとこたえると、頭を叩かれました。翌日早朝、銃殺刑にすると宣告…

相模湖の中国人強制連行(4)

朱文斌らは墾利県廿村東で捕まった後、がんじがらめに縛られて村の中に連れて行かれました。 「途中、川を通った。川は東南から西北に流れ、川原はイバラがいっぱい生えていた。朱文斌は隊列の中ほどを歩いていて、前後を観察した。逃走するよい機会だと思い…

相模湖の中国人強制連行(3)

朱文斌の家は、農村の中等以上の裕福な家庭だったようで、1941年5月に抗大を卒業しています。「抗大」は、中国人民抗日軍事政治大学の略称で、中国共産党が創設した政治・軍事の幹部学校。 「抗大卒業後、清河区(渤海地方行政機構の前身。小清河南北にあり、…

相模湖の中国人強制連行(2)

朱文斌と一緒に捕まったのは、医療関係で働いていた朱太山(当時19歳)のほか、兵器工場の労働者だった宗尚官(当時23歳)がいました。 日本軍に捕まったときのことを朱文斌は次のように語っています。 「1943年12月、日本の畜生は冬季"掃討"を始めた。墾利…

相模湖の中国人強制連行(1)

「我叫朱文斌, 生于1917年, 原籍山东省临淄县毛家屯村」(私は朱文斌といいます。1917年の生まれで、原籍は山東省臨淄県毛家屯村です)と名乗るのは、1944年、第二次世界大戦の末期に神奈川県の相模湖建設に強制連行された被害者です。(『二戦掳日中国労…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(17)

旧・大府飛行場に連行された石門・済南隊の死亡者の死亡事情および遺骨の所在に関する調査は、緒についたばかりです。 最後に、石門・済南隊の人々が強制労働をさせられたそれぞれの地で、追悼式がおこなわれ、慰霊碑を建てようとする動きもあります。 愛知…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(16)

強制連行・強制労働の犠牲者の遺骨を遺族に返す責任は、消滅したのでしょうか。日本政府と関係企業が、日本の法制度を根拠に「法的責任はない」と強弁できたとしても、人道主義にたてばこのまま何もしないで済ますことはできるのでしょうか。 強制連行で命を…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(15)

南氏の依頼に基づいて劉氏は、地崎組伊屯武華出張所の李成、鄗書建、王洪三、宋紀憎、謝運興、闞照禄6名について2013年10月8日―17日に天津市の殉難烈士労工紀念館および6名の出身地と思われる河北省邢台県と山東省寿光,临朐,临淄,博兴,莱芜,莱阳県(市…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(14)

1953年の第2次遺骨送還では、地崎組東川の88柱が送還され、東川出張所の全殉難者は送還済みとされましたが、1954年に「発掘と遺骨処理に不審の点ありとの有力な証言」が出され、北海道実行委員会が再度発掘作業をおこなわれました。その結果、同一墓地から5…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(13)

〔東川出張所〕 ○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名 孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運 *「孫小信、李老、陳元培、温天義、李興運 右五柱昭和十九年十二月二十三日領 ル 柴田整理ズミ 28.6.22 渡済」の2行が棒線で消され…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(12)

〔伊屯武華出張所〕 ○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名 なし ○昭和28年6月の「土建関係綴」に記載されている中国人名 李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄 ○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」 李成・鄗書建・王…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(11)

「愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会」は2013年9月、地崎組の強制連行・強制労働に関する北海道調査の一環として、札幌市の西本願寺別院を訪れ、地崎組が預けた中国人殉難者の遺骨について説明を受けました。地崎組は、北海道の土木業界の中…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(10)

中国天津市の「殉難烈士労工紀念館」には、送還された2822人分のうちの2316人分の遺骨が保管されています。南氏は2011年11月、大府で亡くなった楊洪寛、宋学海、王明文、張玉柱、李(季)良浜(斌)5氏、平岸で亡くなった謝志成、馬蘭祥、解霊山、揚井児、…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(9)

日本の民間団体によって1953年7月から1958年4月まで9次にわたって、日本で亡くなった中国人殉難者の遺骨送還事業がとりくまれ、6830名の殉難者のうち2822名の遺骨が送還されました(推定)。旧大府飛行場で亡くなった5名を含む北海道での殉難者の遺骨送還…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(8)

ところで、石門・済南隊は、何人分の遺骨を祖国に持ち帰ったのでしょうか。手掛かりになりそうなのが、地崎組伊屯武華・置戸・大府・平岸出張所の「華人就労顛末報告書」に添付された写真です。 12枚の写真が添付されており、そのうちの3枚は葬儀関係。祭壇…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(7)

大府で亡くなった5名は、東海市上名和の火葬場で火葬され、遺骨は東海市冨木島の玄猷寺に一時安置されました。石門済南隊は1945年6月、大府から北海道赤平町平岸に移動する際、5名の遺骨を持って行きました。GHQ/SCAP(連合国総司令部)資料の中に、地崎組の…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(6)

1945年9月23日深夜におこった中国人同士の争いについて、「華人労務者就労顛末報告書」は次のように書いています。 「警察側及事務所側ノ知リタル時刻ハ二十四日午前二時頃(平岸駅森浦助役ノ報告ニヨル)ニシテ当時駐在ノ釧路警備隊近久警部補ハ直チニ駅前現…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(5)

石門・済南隊は1945年6月30日に再び北海道に移動させられました。ここでは、日本の敗戦前に病気で1名、自殺で1名が死亡し、戦後は、中国人同士の争いで8名が死亡しています。 ○馬春玉 「死亡診断書」では、1945年7月4日午前1時、結核性腹膜炎で死亡となって…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(4)

上陸の日の夜に下関を出発した490人は列車で山陽本線・東海道本線・東北本線・石北線を乗り継ぎ、3月31日に北海道常呂郡留辺蘂町に到着しました。伊屯武華出張所では10名が亡くなりました。 ○王洪三 23 山東省寿光県 1944年4月1日 北海道留辺蘂町元町、急…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(3)

石門隊・済南隊で船中および下関市で亡くなったのは ○楊藏児 18 河北省定県 1944年3月26日 船中(青島~下関)、死因不明、死亡診断書なし ○赤開弟 28 河北省定県 1944年3月28日 下関高須病院で死亡、急性肺炎 ○劉成章 22 河北省安平県 1944年3月30日 下…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(2)

劉宝辰河北大学教授(肩書は当時)の調査で王明文、宋学海、張玉柱の3名に関する情報が得られました。 ○張玉柱について分かったこと 日本軍がその地を占領した際、近くの大王鎮で張玉柱が日本軍に連れて行かれるのを見た者がおり、どこに連れて行かれたのか…

地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(1)

愛知県の旧大府飛行場で強制労働をさせられた中国人は、1944年11月30日から北海道赤平市平岸に移動する6月29日までの7カ月間に楊洪寛、宋学海、張玉柱、王明文、李(季)良浜(斌)の5名が亡くなっています。 この5名の死亡診断書は、地崎組が1946年に外…