2014-09-01から1ヶ月間の記事一覧

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(10)

三、配置状況 (一)移入后ノ就労ハ湛水ヲ控ヘタル砂利採取現場ニ重点ヲ置キ昼夜兼行ニテ砂利、砂ノ採取ニ労務ヲ集注湛水開始ニ到リテハ河原敷設ノ軌條、諸機械類、採取船ノ解体、撤収ニ就労。満水後ハ中●蓄積セル砂、砂利ノ運搬、撤収、機器ノ手入、格納ニ…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(9)

(六)上陸後受入状況 検疫完了後、夫々、上陸開始。水上警察署前ニ於テ全員ノ集結ヲ終リタル後下関駅前ノ假宿泊所ニ一旦休憩湯茶食事ノ給與後所定ノ列車ニテ出発ス。 乗車人員ノ都合ニヨリ二班ニ分割、事業場所轄ノ特高課員一名、縣外事課員二名出張出向ノ…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(8)

(五)輸送状況 供出側職員ハ真摯誠実ヲ旨トシ輸送ニ当リ受入側職員ニ注意ヲ與ヘ希望ヲ述ベ絶エズ医薬ノ心配食事ノ世話等華労ノ一人一人我ガ子ノ如ク世話ヲナス。又受入側職員ハ勿論附添指導員ヲ補助シ華労ニ対シテハ公平ニ接シ、労工指導員ノ言ヲ俟ツマデモ…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(7)

(二)募集状況 契約人員二九六名募集地ハ済南北京両訓練所訓練生ニシテ華北労工協会ノ指示通リ事業場側引率者之ヲ受領ス。 (三)応募者ノ素質 年令十六才ヨリ四十才迄ノ身体強健ナル者ヲ選抜ス。山東省、河北署ノ出身者九十五%ナルモ済南、北京両地区ニ於…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(6)

二、移入配置及送還事情 一、概況 青島乗船後海上平穏ニシテ無事航海ヲ終リタルモ、俘虜生活中ノ営養失調過度ノ船中疲労ニ依リ下関入港後、風雨ノ都合ニテ下船遷延セル際、船中ニテ死亡者三名翌日下船ニ至リテ検疫所ニ於テ死亡者一名ヲ出ス。事業場側ヨリ出…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(5)

移入ニ際シテハ事業場職員五名、華北ニ出張、三名北京訓練所ヨリ一九六名ヲ受授(ママ)シ、他ノ二名ハ済南訓練所ヨリ一〇〇名受授(ママ)ス。 青島乗船ヨリ労工協会指導員、日華係各一名附添フ特ニ済南訓練所ヨリ元俘虜(訓練生)二名及之ニ日系労工協会員…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(4)

三、華労関係者 宿舎、労務管理ニ対シテ事業場側ヨリ直接(?)担任主任者一名ヲ配シ、補佐トシテ給與担任者一、管理助手一ヲ配ス。労工協会ヨリハ日系指導員一、華系指導員一(通訳)ノ専属駐在勤務ニ依リ主トシテ対事業場、対華労側ノ労務、宿舎ノ管理ニ当…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(3)

二、事業場概要 原則トシテ華労ハ日鮮人ト其ノ職場ノ隔離ヲ要スル故、単一ナル業種ヲ必要トスル関係上、之ガ配置ハ混凝土骨材ノ採取ヲ擔当セル渡辺、佐々木組ニ配属セシム。業務ハ主トシテ、前記骨材ノ砂、砂利等ノ現場採取ニシテ湛水ヲ了セバ湖底トナル勝瀬…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(2)

報告内容(調査項目) 一、事業場及関係者 一、概況 本工事ハ昭和十六年六月着工ニ係ル神奈川縣営相模川河水●●●●土木工事ニシテ、與瀬町地先ニ相模北堤ヲ築造シ上流一帯ニ一大貯水池ヲ造成シ、河水ヲ調整スルト共ニ堰堤落差ヲ利用シテ発電ヲナシ、更ニ下流ニ…

熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書(1)

相模湖に中国人を強制連行した熊谷組與瀬作業所の就労顛末報告書の資料紹介です。外務省公文書館でコピーしたものをもとにしました。文字がかすれていて読み取れない個所も多数ありました。漢字は原文のママですが、句読点は適宜補っています。 昭和二十一年…

相模湖の中国人強制連行(21)

1945年11月27日、約2100名の労工は、捕虜交換の形式で、松本市から列車に乗って出発し、博多港を出港し、12月7日に青島に帰りました。 「この732日は、一生のように長い日々だった。故郷に足を踏み入れて、身内に会った。隔世の感で、夢のようだ。生きて帰れ…

相模湖の中国人強制連行(20)

抗争は明らかに効果があり、形勢が変わり、日本人は中国人の生活を改善することを承諾しました。 「各人に1日にあたり米あるいは小麦粉を1キログラム、いくらかの服装と綿入れの掛け布団が提供され、さらにあきらかなうそだが“給料”もだした。同意もなく、…

相模湖の中国人強制連行(19)

8月下旬、千人余の警官と市民が労工隊を包囲し、鎮圧しようとしました。これにたいし、中国人らも鉄棒や棍棒を持って対峙し、一触即発の事態に発展しました。米軍が表に立って、労工隊に市内の治安を乱すなと説教しました。 「その時つれてこられた日本人通…

相模湖の中国人強制連行(18)

中国人らが日本の投降を知ってからは、公然とした闘争をおこなうようになりました。労工を組織して松本市の中心街をデモ行進し、日本政府の残虐さを糾弾しました。さらに「中国人の中の腐敗分子を清算した」と、朱文斌はいいます。 「隊長の馬盤根(河南人)、…

相模湖の中国人強制連行(17)

朱文斌が「秘密裏の抵抗闘争」として挙げているのが、トロッコをひっくり返して作業を中断させることでした。 「採掘した石を車に積み込むため、山の上に引っ張りあげた。山頂には1台の機械があって、石を大きさによって分け、1本のレールに沿って運んで下り…

相模湖の中国人強制連行(16)

朱文斌は、8月15日のことを次のように語っています。 「8月15日、突然仕事をしないと告げられた。毎日の旗の掲揚の儀式も取り消しになった。新聞を探してきて見ると、日本は投降したとあった。悲惨な待遇を受けていた400数名の労工は、屈辱と怒りを抑えるこ…

相模湖の中国人強制連行(15)

相模湖の中国人たちは、1945年7月13日に松本に移動させられました。朱文斌は、松本での日本の敗戦までの2カ月を次のように語っています。 「1945年6月ころ、隊全員は松本市に移動させられた。さらに200名が増えた」 外務省報告書の「華人労務者移入・配置…

相模湖の中国人強制連行(14)

相模湖の地形図です。上は、1932年10月30日大日本帝国陸地測量部発行。

相模湖の中国人強制連行(13)

相模湖に来た300人の中国人の宿舎は、現在、相模湖公園になっているところにありました。中国人は、2手に分かれて相模湖と、4キロ下流の沼本(津久井湖ダム)で作業をおこなっています。 たびたび逃亡がおこったようですが、朱文斌は「5名の労工は、このよう…

相模湖の中国人強制連行(12)

與瀬作業所では、292人が6班に分かれ、1日2交代で、24時間休まず水力発電所の建造を行いました。 「仕事は砂や石を掘り、トロッコを押した。とても労力のいる肉体労働をさせられた。作業用の服も手袋も支給されず、傷を直す薬品もなく、安全措置もしなかっ…

相模湖の中国人強制連行(11)

朱文斌らは昭和19年4月19日に下関に上陸した後、列車で神奈川県に移動、21日に與瀬町に着きました。斉鳳奎(25歳、山東省東陵県)は列車の中で死亡しています。事業場報告書は、「列車輸送中、第二次班中名古屋附近ニテ一名死亡セルモ…其儘事業場駅迄輸送ス…

相模湖の中国人強制連行(10)

「殉難者名簿」には、証言どおり、4名の犠牲者名があります。 ・高友 36 河北省文安県富蕭県 19・4・18 肺炎 船中死亡(入港後)死亡診断書無 ・閻宝全 24 河北省易県甫都 19・4・18 栄養不良肺炎 船中死亡(入港後)死亡診断書無 ・郭枝真 23 山東省青城…

相模湖の中国人強制連行(9)

1944年4月9日、突然、身体検査がおこなわれました。日本人の医務員が顔を見て、体格のいいものを選び、身長、体重、体力、握力などを測りました。別のところに配置換えになるのだろうと推測したが、この"閻魔殿"さえ離れられればいいと思っていたそうです。…