西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(13)

 調査では、名簿に記載された360人のうち271人の本人もしくは遺族の消息が明らかになった。被害者の半数さえ明らかにすることは困難とみられていただけに、75%もの被害者と遺族が明らかになったのは、大きな成果というべきであろう。強制連行の真実に迫った調査として特筆されるべきだろう。

 調査委員会の中心的な役割を担った劉宝辰さんの「いくつかの感想」を全文引用する。        

 

 私は1988年から日本に強制連行された中国人労工問題に関心を持ってきた。1992年に安野の中国人労工の全面的な調査を始めた。調査研究では、労工たちの苦難の経歴と生きるために抵抗した訴えに耳を傾けた。彼らは積年の恨みを包み隠さず打ち明けてくれた。そして大部分が対日賠償請求の強い要求を持っていた。

 調査は2つの段階に分かれる。

 第1段階は、和解成立前に河北大学の教員・学生と日本の友好人士及び良心ある広島市民が行なった共同調査である。私と教員・学生が大学の休みや祝日を使って調査に出かけて労工を探し、証言と証拠品在集めた。目的は、「安野事件」の真相を明らかにし緊急に証言を集めて歴史に記録すること、そして労工たちの「三項目要求」(謝罪、記念碑の建設、賠償)を実現するための確実な根拠を提供することだった。約160人の労工あるいは遺族を探し出し、健在の労工も数十人いた。和解後の調査に比べると容易だった。

 第2段階は、2009年10月の和解成立後、基金運営委員会が統率して行なった調査である。目的は、未判明の労工及び遺族を探すとこと補償金支給の準備のために継承人を確認することだった。この段階の調査は難度が高かった。参考になる資料が少なく、日本側が提供した「労工名簿」に記載された名前や住所が正確でないほか、時間が経ったために健在の労工が少なくなり、事情に詳しい数少ない人の記憶も暖昧になった。しかし、彼らが提供した断片的な証言が調査の貴重な手がかりとなった。以下に、具体例を2つ挙げる。

 「労工名簿」には「劉本善 山東省莱陽県序小口」と記載されている。調べると、莱陽県にこの村はない。私は、県内にあるこの村名と字の形や読み方が似た村を書き並べた。そしてこれらの村を何度も訪ね、面倒がらず、1つずつしらみつぶしに調べた。しかし、どこにもこの人はいなかった。「亭子口村」にたどり着いたとき、「劉本彔(彐+氺)」という人が家を出てから50年間行方不明」「若いとき兵士だった」「現在は東北にいるが住所は不明」などが分かった。私はこれらのかすかな手がかりを繋げ、つるをたぐって探した。親族が別の親族を探し、新たな情報を1つずつ入手した。そして、老人は健在で、遼寧省に住んでいることがついに分かった。すぐに聞き取りを行なったところ、彼は労工としての主要な経験をはっきり覚えていた。

 もう1つ例を挙げる。労工の張澤科は生前、青海省で働き、張恵庭に改名した。妻は、夫がかつて張澤科と名乗ったことを知らなかった。そのため長い間、完全には確定できなかった。妻が高齢になったので、早く確定させるのがよいと考え、私は2010年12月中旬、西寧に行って当人の身上調書を調べた。そこには、「張恵庭、幼名は張澤科」「日本侵略者に捕まえられ、日本国広島県加計村で水力発電所を建設した」とはっきり書いてあった。私は彼が安野の労工であると認定した。家族は身上調書の記載内容を知り、すぐに「補償金申請書」に記入した。妻を慰めることができたと思う。私はこの旅の疲れで腰痛が再発して入院したが、深く安堵した。

 これまでの日々を振り返ると、様々な苦難があり、たくさんのことを感じた。喜びも悩みもあり、順調だったり挫折もした。経験をし教訓も得た。前期の調査では、政府の阻止や妨害に遭った。後期の調査では、下心を持つ人から中傷され、真相を知らない人から非難されたこともある。20年間、危険を冒し妨害を排して、安野の中国人労工を探すという意義のあることを何とか立派にやり遂げた。社会に広く認められ評価された。何の恨みも悔いもない。

 

 「前期の調査では、政府の阻止や妨害に遭った」という文言を素通りしてはならない。劉氏はかつてこう話してくれたことがある。「労工問題に取り組もうとする研究者は、大変な制約を受け、こそこそ隠れるようにして調べていた。公安当局からは、あなたが労工に会うのは構わないが、日本人を労工のところへ案内することはできないと言われたこともあった」。それが大ぴらに研究できるようになったのは何年もしてからで、国家級の研究課題と認められてからだったという。中国の若い研究者の使命感、学問的良心と、それを支えた日本の市民運動があっての結晶だったことが、劉宝辰さんの「いくつかの感想」から浮かび上がる。