地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(12)

〔伊屯武華出張所〕

○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名

なし

○昭和28年6月の「土建関係綴」に記載されている中国人名

李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄

○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」

李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄

〔地崎組平岸出張所〕

○昭和19年度の「地崎組・新川組納骨控」に記載されている中国人名

謝志成・馬蘭祥・解霊山・陳正朝・揚井児・雪山・張照夫・劉樹鎮

*「昭和二十一年五月六日 地崎組平岸出張所保管 広岡 華人計八名 但シ三個

トシテ請取証出セリ 右内譯 一一六謝志成、一一七馬蘭祥、一一八解霊山、一一

九陳正朝、一二〇揚井児、一二一雪山、一二二張照夫、一二三劉樹鎮 右ハ骨堂正

面ニ安置ス」の記載あり

○昭和28年6月の「土建関係綴」

謝志成・馬蘭祥・解霊山・陳正朝・揚井児・雪山・張照夫・劉樹鎮

*同綴りには「中国人遺骨(法城寺=東川=分)八十八体及(浄光寺=平岸=分)

五体計九十三体ヲ昭和二十八年六月二十五日地崎組ヨリ一時保管セリ(地崎組ヨリ

一時保管九十三体ノ名簿ハ昭和二十八年七月三日東別院教務所ヘ提出セリ)」とい

う注がある。

○昭和44年7月11日の「遺骨遺留品整理簿」

なし

「土建関係綴」では、伊屯武華出張所の李成と他の5名は、李成が69番であるのにたいし、他の5名は84番から88番が割り当てられており、あきらかに別扱いでの記載になっています。さらに、李成は所属組名の記載がないのにたいし、他の5名は地崎組であることが明示され、備考欄には「送還済 現物5体保存(保存に棒線)」という書き込みもされています。この違いはおそらく、李成が石門隊であったのにたいし、他の5名は済南隊であり、事務が別だったことによるのでしょう。あとの4名の遺骨がどうなったのかも不明です。

平岸出張所の死者は10名で、病気および自殺者2名、中国人同士の争いによる死者は8名です。中国人同士の争いにより死亡した8名の遺骨は、「地崎組・新川組納骨控」の「昭和二十一年五月六日」の記事によって、平岸寺(正式には、浄光寺)に安置されていた遺骨が1946年5月6日に西本願寺別院に移されたことが確認できます。「華人計八名 但シ三個トシテ請取証出セリ」という記載内容は、警察が掘り出したのは7体とする地崎組「華人労務者就労顛末書」の記述と矛盾しますが、合葬されていて「3個として」受け取ったため、地崎組担当者の主張にもとづいて「八名」と記載したのでしょう。

中国殉難者名簿共同作成実行委員会の「事業場別中国人殉難者遺骨送還状況一覧表」(1960年2月)は、「北海道慰霊実委により、平岸寺安置の遺骨八柱を収骨して送還した」としています。1969年作成の「遺骨遺留品整理簿」では、この8名の名前はありません。

伊屯武華の李成・鄗書建・王洪三・宋紀憎・謝運興・闞照禄の6名の名前が昭和44年7月11日作成の「遺骨遺留品整理簿」に記載されたままになっています。これは、西本願寺に残された朝鮮人の遺骨のなかに中国人の遺骨が混ざっているかどうかという問題でもあり、解明が必要です。