2013-01-01から1年間の記事一覧

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(6)

調査報告書「愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働」で落としてはならないのが、「伊屯武華」出身者の木村玲子さんの一文です。「戦時中、朝鮮人や中国人がたくさん働かされていたことは、子ども時代に・・・悲惨な噂として耳に入っていました…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(5)

大府での調査もボリュームアップしています。なかでも目を引くのは、114ページの「その後の調査で分かったこと」です。中国人が寝泊まりした「みかん畑の大きなテント」の位置をつきとめ、その近くの土地所有者から「ここで中国人がテントで生活している…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(4)

調査報告書『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』の特徴の一つは、強制連行問題の中国側研究者・河北大学の劉宝辰教授の被害者調査報告が掲載されていることです。劉教授が西松建設の安野事件で被害者の掘り起こしにとりくみ、日本での裁判…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』出版(3)

報告書新版では旧版になかった写真が多数掲載されています。この数年の調査のなかで得られたものでしょう。なかでもたいへん興味深いのが、38ページの天津労工紀念館に安置されている遺骨箱の写真です。この写真と、同論考の末尾に掲載されている「地崎組石…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』出版(2)

南氏の「概要について」で最も注目すべきは、「占領軍国際検察局(IPS)による地崎宇三郎の戦犯訴追問題」でしょう。 論考は、「国際検察局(IPS)は地崎組の二代目地崎宇三郎を中国人強制労働を訴因の一つとして訴追する準備を行っていた」として、IPS文書№…

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』が出版(1)

『愛知・大府飛行場における中国人強制連行・強制労働』という調査報告書が出版されました。発行は、「愛知・大府飛行場中国人強制連行被害者を支援する会」。 〔本書の主な内容〕 ・大府飛行場中国人強制連行・強制労働問題の概要について 南守夫(愛知教育…

赤平の中国人強制連行のまとめ

これまで私が被害者本人から聞いたり証言録を読むなかで、中国人の寮は人里離れた山奥にあり、社会から隔離されてきたという印象をもっていました。ところが北海道赤平市では「赤平合衆国」と地元でいわれるほど多数の米軍捕虜、朝鮮人、中国人が強制連行さ…

井華赤平の馬書児さんの証言(3)

馬書児さんの証言を続けます。 赤平はとても寒く、路上に降り積もった雪はとても深い。人の背丈より高く、ちょっと油断すると雪のくぼみに落ちる。私達が履いている靴はみなぼろぼろで、縄で縛って履いた。ある時トロッコを押していた。とても寒いため、車に…

井華赤平の馬書児さんの証言(2)

井華(住友)赤平事業所で強制労働をさせられた中国人・馬書児さんは、働いていた様子を次のように語っています。 私たちの寮は木造で、屋根は石綿のスレートだった。大部屋で、1軒に1つの小隊が住んだ。小隊長は何文波。食事は1日3度で、豆の粉でつくった…

井華赤平の馬書児さんの証言(1)

『二戦掳日中国労工口述史』には、井華赤平(炭鉱)に連行された中国人10人の証言が掲載されています(「掳」はさらうの意)。そのうち本人の名前もしくは証言者があげている隊長名やいっしょに連行された人の名前が企業が作成した名簿と一致している場合…

井華赤平の李清文さんの証言(3)

井華赤平の李清文さんは、逃亡した仲間がリンチを受けたことも証言しています。 赤平の冬はとても寒い。昼間でも綿の服を着ていなければ我慢できないほどだ。腹一杯にならなくて、着る服は温かくなく、なぐられ虐待された。だから脱走しようとする者がいた。…

井華赤平の李清文さんの証言(2)

私達は"中華寮"に住んだ。そこ家も木造だ。私達の寮には大きいストーブが六つあった。大部屋で、寝床は1列に長く、床にはござが敷かれていた。その上に寝て、体にかけるのは南兵営で渡された掛け布団だ。 仕事を始める時、班長が8人を1つの坑道に引率した。…

井華赤平の李清文さんの証言(1)

河北省石家荘市郊外の大河郷大河村出身の李清文さんも北海道の赤平に連行された一人である。井華(住友)赤平名簿の266番に記載されている。 1944年8月7日朝、家で寝ていたとき、日本人が私の家に侵入してきて連行されたという。石門(現・石家荘市)の警官…

井華赤平の田世珍さん(3)

中華寮で1年余り過ごして、日本の投降に至った。私達はようやく労働をやめた。日本が投降したすぐは、私達は決して知らず、日本人も私達に知らせなかった。ただ私たちを働かせることはなく、また私達の服を脱がせ、蒸した。数日感、私達は家の中でぶらぶらし…

井華赤平の田世珍さん(2)

井華赤平で働かされた田世珍さんの証言です。 北海道赤平町の炭鉱で働かされた。そこの労工の宿舎は"中華寮"といっていた。着いたすぐは仕事をせず、10日間休んで、この期間に日本人は私達に日本語を学ばせた。仕事は、昼班と夜班の2班交代で、それぞれ12時…

井華赤平の田世珍さん(1)

井華赤平事業所で強制労働をさせられた233番の田世珍さんが日本に連行された経緯はこうでした。 1944年の陰暦8月7日(新暦9月23日)朝、鍬を担いで畑に水をやりに行った。途中日本兵に遭遇して捕まり、石門警官局第1分所に引っ張られた。第1分所に3日止め…

井華赤平の何洛柱さん証言(5)

私たちの隊の炊事係が厨房でマントウをつくりに行ったときに、新聞紙に包んで持ち帰ってきた。炊事班の班長は毎日新聞を新しいものと取り替えた。ある時、私達は新聞に書かれているのを見た。 "……平和的解決"。それでようやく日本が降伏したことを知った。日…

井華赤平の何洛柱さん証言(4)

井華赤平の何洛柱証言のつづき 日本人は、わたしたち労工を全部で8つの大隊に分けた。私は第3大隊である。各大隊には3人の中隊長がおり、さらにいくつかの班長がいた。私たちは腹が減って我慢できないので、厨房にいって食べ物を貰おうとした。死んでも構…

井華赤平の何洛柱さん証言(3)

私(何洛柱)の坑内での仕事は、穴をあけることだ。穴をあけ、発破をかけた。私を率いた日本人の監督は、三宅という人で、彼は中国東北で何年かいたことがあり、中国語が話せ、中国語を聞き取ることができた。働いていた時、私たちがたいへん疲れて我慢でき…

井華赤平の何洛柱さん証言(2)

井華赤平に強制連行された中国人・何洛柱さんは、日本での虐待を受けた状況を次のように話しています。 炭鉱で住んだところは、木造だった。日本の庶民のほか、朝鮮人も木造の家屋に住んだ。建物は全部木造で、寝るところは大部屋で、雑魚寝した。私たちは30…

井華赤平の何洛柱さん証言(1)

何洛柱が日本に連行されるまで 井華赤平300番何洛柱さんは、河北省徐水県西劉営村出身です。前回紹介した河北省徐水県南留村の劉玉庚さんの隣村の人です。何さんは、1943年、区の幹部の王松林に派遣されて1区の区事務所に行く途中、特務と日本兵に取り囲ま…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(4)

井華赤平46番の劉玉庚さんの証言は続きます。 中国労工のほか朝鮮の労働者もいっしょに仕事をした。彼らも日本人から虐待と苦難を受けた。あるとき、1人の朝鮮の労働者が私に言った。“あなた達は亡国の民ではない。私達はあなた達よりもっと悲惨だ。日本人…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(3)

井華赤平の劉玉庚さんの証言の続きです。 主な食べものは、豆の粉と小豆の粉でつくった小さい渦巻き状のマントー(蒸したパン)で、一日3度出た。春になってから、たまに魚のスープを飲むことがあった。食事も住むところもひどい。住居は木造の長屋で、1つの…

抗日戦争紀念館が強制連行の事業場報告書などを展示

中国广播网は9月18日に「日本强掳中国赴日劳工罪行档案今天在京公布」と報道しました。(http://news.cnr.cn/native/city/201309/t20130918_513637015.shtml) 北京で日本に強制連行された労工に関する「档案」資料がきょう18日に公開されたというニュースで…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(2)

【赤平の炭鉱での労働のようす 劉玉庚さんの証言】 炭鉱についてすぐは、坑内に入って仕事をすることはなく、日本語を学習した。学んだのは、工具の名前など仕事に必要な言葉だった。いまも覚えているのは中国語の"鉄鍬"で、日本語では"スコップ"と言ってい…

井華赤平の劉玉庚さんの証言(1)

「赤平合衆国」と形容されるほど、朝鮮人・中国人強制連行が多かった赤平市。そのうちの一つが、「井華(住友)赤平」です。そこで働かされた劉玉庚という人の証言を紹介したいと思います。 「井華赤平46番」の劉玉庚さんのプロフィールと日本に来るまでを、…

「北海道学」と中国人強制連行

北海道大学の小田博志さんのHPに「北海道の『民衆史掘りおこし運動』を掘りおこす」という文献表が掲載されています。http://www13.ocn.ne.jp/~hoda/minsyushi.html 北海道における「民衆史掘りおこし運動」について小田さんは、「北見の高校教諭・小池喜孝…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(13)

Ⅴ 平岸油化工場の痕跡 滝川市の友人と日本油化工業跡を探して回った。確認できたのは、 ① 油化工場の施設の一部で、コールタールの貯蔵槽。コンクリートの一部が地表に表れていた。また、少しだがコールタールも見られた(写真) ② 地崎組の飯場の跡 ―である…

「赤平合衆国」といわれるほど多かった捕虜と強制連行(12)

『赤平市史』の平岸油化工場に関する解明は、続きます。 十八、十九年にかけて、平岸の農村地区に巨大な工場建設計画が急速に進められたが、北海道炭素工業と日本油化工業は、その系列は一体のもので、すべて日本油化工業が主体となって進められたものであり…

みかん畑のテントに向かって兄を思う

11日に来日し、12日に札幌市で連行企業・岩田地崎建設と交渉した河北省威県の宋殿挙さんは、14日、愛知県の東海市でおこなわれた「第5回中国人強制連行殉難者追悼式典」に参列されました。 ◎強制労働の中国人追悼 遺族ら飛行場跡訪問 愛知 (しんぶん赤旗2…