沖縄の歴史と貧困の由来

 10月2日、沖縄県母親大会が豊見城市で開かれ、そこで行政書士の安里長従さんが「沖縄の貧困―その特徴と課題―」というテーマで講演された。安里氏は、さまざまなデータを使って沖縄の貧困問題がどこにあるのか、深く分析された。ここでは、氏が配布された沖縄の歴史と社会保障に関する部分を紹介する。※印をつけて記述したところは、安里氏の見解ではなく、このブログを書いている筆者の個人的感想であることをお断りしておく。
 
【安里氏のレジュメから】
琉球処分沖縄戦による本土防衛のための捨石・荒廃
●銃剣とブルドーザー
 米軍は、収容所に住民を押し込んでいる間に集落をつぶし基地を拡張。収容所から出ると集落や畑は 基地となっており、農業はできず、しかもB円軍票貨幣経済となり、米軍のもとで軍作業員として従事し貨幣を得るしかなかった
講和条約による沖縄の分離・基地の形成・27年のアメリカ施政権下
●1972年5月15日、本土復帰、日本国憲法への復帰、高度経済成長終了
 核抜き本土並みの嘘、最後の高等弁務官ランパート「復帰後も沖縄にある基地は、その機能を維持していく、軍人4万3千人に変更があるとは考えていない。」
 復帰時の沖縄の経済社会の状況は、医療、教育、交通等の生活基盤、産業基盤など多くの分野で本土と著しい格差
●変わらぬ基地問題

4.米軍統治下の沖縄の経済と社会保障
●米軍の沖縄統治とその特徴
 「米軍政府はネコで沖縄はネズミである。ネズミはネコの許す範囲でしか遊べない。」(海軍軍政府政治部長ジェームズ・T・ワトキンズ少佐)
 「沖縄の自治は神話だ」キャラウェイ高等弁務官
●復興と社会基盤整備・基地経済・ドル経済
 留保政策・・・忘れられた島 占領後5年近い放置政策→本土のような戦後復興政策はなかった。
 日本政府の産業政策が及ばない。社会生活基盤、産業基盤整備の絶対的な遅れと弱い物的生産力 cf日本 鉄道、道路港湾等の産業基盤が整備(第一次全国総合整備計画、所得倍増計画)、 新産業都市建設促進法、工業整備特別地域整備促進法制定
経済社会の発展のための十分な資本投下がなかった。沖縄分離統治決定(1950年2月)日 本政府からの援助なし(援助開始は、1962年から)
 当時の高度経済成長につながった日本の産業保護政策 (1ドル=360円)、 沖縄では様々な物資調達のために1ドル=120B円 (B円は沖縄の特別通貨)に設定され、付加価値額の大きい製造業が育成される状況にはなく、役場などの政府機関やアメリカ軍基地以外に大規模な雇用が不可能となった。→日本本土とは大きく異なる基地依存型輸入経済構造となる。
 ※ここでの安里氏の論旨は、沖縄経済の特徴付けにあるのであって、氏が日本の高度成長についてどのように評価されておられるかを推し量ることは無理があるように思う。
●米軍統治下における社会福祉とその特徴
 1945年 4月 、米軍上陸と同時に軍政府が設置され、収容所、食料、医療、医薬等を提供
 基地の確保という軍事目的を阻害しない範囲で講じられたもの(島ぐるみ救済、宣撫工作) ↓
 人権思想に裏打ちされた社会保障とそもそも矛盾。施政権者 (米国)の義務としての県民生存権保障という視点の欠落
 1945年8月、軍政の諮問機関として発足した沖縄諮詢会の社会事業部へ移管
 1946年4月、諮詢会に代わる沖縄民政府の誕生、「島ぐるみ救済」から「近代的な公的 扶助」へ
 1952年 4月、琉球政府成立…国家的業務・米軍関係業務の占める比重が高いことによる社会福祉業務の圧縮
●沖縄における福3法の成立と特徴
 沖縄では三法とも1953(昭和28)年制定公布
 財政の裏付けが貧困なために、本土法の規定を削除や簡略化、実践面においてもきわめて 低劣な水準に置かれた
 (1)児童福祉法 (日本では1947(昭和22)年制定、6年のズレ)
 *全国では1960年代の保育所整備と同時期に小学生の放課後の「鍵っ子」対策として 1966年の「留守家庭児童会補助事業」をはじめとする施策が展開され、その後自治体の責任の下、小学校余裕教室等を活用した学童保育の整備が促進。
  ※同じ学童保育と言っても、1980年ころは、民間が主流の県と、指導員を自治体が 雇用するのが主流の県に分かれていたように思う。民間は財政基盤も不安定で、なかなか運営が困難だったようだが、情熱的な指導員が多い印象があった。
 一方沖縄では、日本本土から分断された27年間の米軍統治により社会福祉に関する法整備が大きく遅れた。1972年本土復帰後、保育所の整備は促進されたが、学童保育については自治体主導での整備は図られなかった。そのため、学童保育を必要とする保護者同士が集まり、保護者会で学童クラブを設立・運営するケースや、認可外保育園や個人が保護者のニーズに応えるために学童クラブを開設するなど民間主導で学童保育が広がった。その後、1998年の法制化に合わせて市町村で学童保育の実施要綱が作成されたが、多くの市町村で学童保育を「公営」や「委託事業」ではなく「補助事業」と位置づけたため、93%が民立民営。また、市町村からの公的支援も国基準の補助金交付にとどまっているところが多く、全国では 57.4%の市町村が保育料の減免を実施しているが、沖縄県では1市のみとなっている (第2回北谷町子ども・子育て会議新制度勉強会2014.7.1『学童保育の現状と課題』から)
 (2)身体障害者福祉法 (日本では1949(昭和24)年制定、4年のズレ)
戦災に起因する身障者の数398人で、総数の5・9%弱 (日本本土の同種原因に基づく もの0.6%)(1964年1調査)。
 できるだけ「被救済該当者」ではないとする運用、法内容の本土法との格差、予算不足を 理由とする空洞化
 (3)生活保護法 (日本では1950(昭和25)年制定、3年のズレ)
第1条「政府が生活に困窮するすべての琉球住民に対してその困窮の程度に応じ、必要な保護を行い…」
 cf 日本法第1条「日本国憲法第25条に規定する理念に基づき、国が生活に困窮するすべての国民にたいし、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い…」
 琉球政府は国家機関ではない=沖縄には国の義務としての生存権の保障は存在しない。   

 保護基準の低位性
●沖縄における公的年金制度の発足
 (1)1965年公務員退職年金法制定
 形式上は本土の国家公務員共済組合法だが、対象は琉球政府職員、市町村職員、電電公社の職員等も含み、本土における地方公務員等共済組合法に該当する。実施期間(ママ)は政府 (本土では共済組合)。
 (2)1968年厚生年金法施行 (日本では1954年)
 本土との給付水準の均衡のための数回に渡る特別措置(受給資格期間の短縮、特別納付等)が講じられてきたが、平成23年3月31日をもって終了。
 (3)1968年国民年金法施行 (日本では1959年) 昭和36年4月1日~同45年4月1日 までの間沖縄に住んでいれば、手続を取ることで免除期間とみなされる(平成4年3月31日までは特例追納が可能だった)。 住民票、戸籍の附票等の不備
 おきなわ特別措置対象者に係る居住確認申立書(親族以外の2名からの住んでいたことの証明書)の入手困難
 国民皆年金制度への不信感、手続の煩雑さ、追納における負担能力の問題で加入が不十分
●その他 米国から琉球政府への財政援助は極端に少ない→「援助」自体が軍事基地の有効な維持をねらったもの
 1961年度琉球政府一般会計に占める米国政府援助14.6%、沖縄県民からの租税、印紙収入73.3%
 更に財政支出には国政事務相当経費が含まれていることによる、自治体として果たすべき福祉サービスの低下
 *1962年度から日本政府援助が開始するものの、琉球政府が随意に流用できない(活用できない?)ひもつき援助

 ※アンダーラインを引いた個所を見るだけでも、なぜ沖縄経済の戦後復興が大きく遅れたかがはっきりつかみ取れる。さらに、沖縄の内的発展に結びつかず、数年すれば、赤字だけが残る箱もの行政も沖縄福祉の発展を阻害したように思う。「基地ばかりで、革新も福祉に熱心でなかった」という議論を時折目にするが、リアルな分析に基づいているのだろうか。安里氏は、次のようにまとめている。「沖縄経済の脆弱性、貧困問題は、沖縄戦による荒廃、27年にわたる米軍統治、基地経済、ドル経済による産業のいびつ化、行政の分離により日本国憲法の不適用、福祉三法、公的年金制度などの社会保障制度の遅れに、復帰後も変わらぬ基地問題、それと一体となった沖縄振興体勢(基地温存、本土還流(ザル経済)、ハード偏重、依存誘引(自立困難))という構造的な問題に起因する」。この分析には大いに共感する。