「置戸町史」に見る中国人強制連行(8)

判決文だけでは、趙宗仁さんの強制連行・強制労働被害の断片しか分からないように思いますので、補足するためにしんぶん赤旗本吉真希記者のインタビュー記事を挙げます。

2008年8月15日付「しんぶん赤旗

 日本軍に協力していた村の役人がいいました。「生活が苦しいだろう。労働に行けばお金がもらえる」。すべて、うそでした。
 1944年9月。14歳だった趙宗仁さん(78)は、中国・北京市郊外の昌平県に行けば、仕事があるとだまされました。7人家族の農家。貧しい生活でした。
 昌平県に着くと、200人の中国人が集められていました。あとで聞いた話では、村ごとに2人ずつ連れて来るよう割り当てられていたといいます。
 翌日、北京市内の華北労工協会に汽車で連行されました。途中、何人か逃げ出しましたが「私は小さかったし、帰り道もわからなかったのであきらめた」。
      服を没収され
 その翌日、趙さんら149人の中国人は天津の港・塘沽へ汽車で移動。到着後、日本の軍隊に引き渡されました。着ていた服を没収され、黒色の綿入りの作業服と綿入りの掛け布団1枚、靴1足を渡されました。
 全員が倉庫のような木造の建物に入れられました。真ん中に通路、両脇につながったベッドが並んでいました。「2人背中合わせで、寝返りを打つことができなかった」。建物は鉄条網で囲まれ、その外側も電流の通った金網が張られていました。
 1週間ほどたってから、船に乗せられました。船内で白地に黒い文字で「熊谷組」と書かれた布切れを服に縫い付け、渡されました。
 山口県下関に着いてから福島県で1カ月、長野県で3カ月、北海道で終戦まで、奴隷のように働かされました。
 長野県下伊那郡にあった熊谷組の平岡事業所でのことです。日本人がまだ息のある重病の仲間の体を縛り、木箱に入れて火葬したのを目撃。「とてもつらくなって逃げようと思ったけど、行く当てもないのであきらめた」
       賃金払われず
 終戦までの約1年、発電所の建設や鉱山で鉱物を掘りました。休日はなく、賃金も一切、支払われていません。
 趙さんは「労工協会とも日本の会社とも、労働契約を結んだことはない。日本での仕事の説明を受けたこともない」と証言します。
 趙さんが連れて行かれた華北労工協会は、日本政府の政策に基づき、華北での労働者の募集、供給、あっせんを行う機関として設置されました。しかし、実態は「募集」などとは程遠く、捕虜や日本軍が捕まえた農民、趙さんのように行政機関によって連行された者が送り込まれました。
 政府資料によると、中国人約4万人が日本に強制連行され、35企業の135事業所で過酷な労働を強いられました。うち約7000人が命を落としたといいます。政府はいまだに謝罪も補償もしていません。
 来日した趙さんはいいます。「日本政府と企業に人間でない扱いを受けた。歴史の問題として、日本に課された問題として、解決のため尽力してほしい」

本吉真希)