強制連行の基地となった塘沽港(3)

   1970年の港務局報告書は、万人坑について、およそ、次のように報告しています。

1955年、政府は民間科に"万人坑"の道路寄りの遺骨を移すように命じた。この作業に従事した労働者は、「人の背丈の半分も掘らないで、"取りきれない"ほどたくさんの骨が出てきた。頭皮のある頭蓋骨もあったし、長らく水に浸かっていて骨だけでなく、肉と皮も残っている死の直後のままの遺体もあった」と述べている。

出てきた遺骨は、袋に詰めて塘沽の第2共同墓地に送ったというが、その量は300数袋だったという人もいれば、100数袋という人もあり、一致してない。この1955年の移動以外に遺骨が掘られたことはなく、まだたくさんの遺骨があると見られるが、具体的な数字は調べられていない。

塘沽の港務局報告書は、労工収容所での労工の闘争についても言及しています。

「収容所は、暗くじめじめしていて、たえず瘟疫が発生した。労工は病気になっても治療を受けられない。多くの労工がくたばって死んだ。まだ息があっても、売国奴たちは『万人坑』に埋めた。労工たちは、この野蛮な統治に奮起し、反抗した。暴動はたえず発生し、多くの労工が日本人と売国奴の銃剣のもとで悲惨な死を遂げた」

「現在、分かっているのは、1944年初め、6月、9月に大きな暴動が起きたことだ。規模は100人以上。19446月の1次暴動では、共産党の非合法党員范自強、王星如、劉光が暴動を指導した」

(『日本略奪華北強制労工档案資料集』)