「人間地獄」と恐れられた石門労工収容所(9)
この章のしめくくりに河北大学の劉宝辰教授の石門南兵営に関する解説を紹介します。
日本軍は、1941年6月に河北省石門(現・石家荘市)に俘虜収容所を設立し、“労工教習所”、また“労工訓練所”と称した。市街区の南部にあり、地元の人たちは“石門南兵営”と呼んだ。ここには日本軍の3906部隊と1417部隊が駐留した。
石門の“労工訓練所”の副所長だった張子元(中国共産党の派遣する情報工作員)の追憶によれば、
▽1万人以上を収容することができ、日本軍は頻繁に大掃討をおこない、解放区の軍民を捕まえて、ここに連行した。
▽卑劣な手段を使って捕虜を寝返らせ、指導幹部や八路軍の情報を集めた。
▽捕虜の中で青壮年を選んで労工として日本に連行した。1944年1月1日に“石門労工訓練所”が正式に設立された。
▽“教習所”の任務は、丈夫な捕虜を選ぶこと、“訓練”を経て、日本に労工として送ることだ。
ということだった。
南兵営には、長さおよそ40メートル、幅およそ6メートルの7つの大きな建物があったが、捕まえる人が多くなって、臨時にいくつかのアンペラ小屋ができた。小屋の中は地面にむしろやわらを敷いたが、雨が降ると、雨漏りがする。収容されていた者は、雨に浸ったむしろに寝なくてはならず、多くの人が疥癬と膿腫に苦しんだ。出された食事は、かびが生えた少量のコウリャン飯で、油っけのあるものや野菜はなく、たまに漬け物がつくだけで、飲み水も足りない。人々は拷問で体が弱り、栄養不良も重なって、毎日多くの人が死んだ。
南兵営には営倉、取り調べ室がある。拷問の種類もたいへん多い。例えば、つるして打つ、坐老虎凳、水責め、唐辛子の水を口の中に注ぎ込む、軍用犬にかみつかせる、鉄ごてをあてる、口の中に真っ赤に燃えている豆炭を突っ込むなどだ。ある人は焼きごてで生殖器を失くした。