きょう4月28日は、沖縄の「屈辱の日」

 沖縄では4月28日を「屈辱の日」と呼んでいます。
1952年4月28日は、日本が連合国とサンフランシスコ講和条約を結び、国際社会に復帰することになる日ですが、同時に、日本は日米安保条約によって米国の軍事的支配の鎖に縛りつけられました。この日は、沖縄からみれば、沖縄を分離することによって日本国が独立を回復するというものであり、沖縄では「屈辱の日」と呼ばれるようになりました。そしてアメリカの統治下では、日本国憲法は適用されず、さまざまな人権侵害が横行しました。
 たとえば米軍基地を拡張するための土地取り上げ。
52年から53年には、那覇市の銘刈(めかる)、読谷(よみたん)村の伊佐浜などで、武装米兵に守られたブルドーザーが家を壊し、住民を追い出すことが起こりました。
「銃剣とブルドーザー」に注目すれば53年ということになりますが、米軍が立ち退きを迫って通告をしてきたのが52年の12月ですから、沖縄を日本から切り離したその年のうちに起こったということに、より注意する必要があるように思います。
土地接収は、ベトナム戦争での北爆開始(65年2月)に伴い、基地の拡大が図られた時にも行われました。
本土への渡航もアメリカの許可が必要でした。米兵による凶悪犯罪も頻発しました。米軍人・軍属にたいする琉球政府の捜査権はないに等しく、基地の廃油で井戸が汚染され、ヘリからの投下訓練でトレーラーを投げ落とし、少女が下敷きになって死亡する事件も起きました。
沖縄県民は、こうした人権侵害をゆるさないたたかいを進めるとともに、祖国復帰を掲げて沖縄県祖国復帰協議会を結成し、島ぐるみのたたかいを行いました。
 戦後70年たってもなお米軍基地が居座り続けており、先月、米兵による女性暴行事件が起きたように、米軍基地があるが故の被害が後を絶ちません。米軍がらみの事件・事故が起きるたびに「過去の屈辱」を思い出す人も少なくないようです。むろん、いま進行している日米政府による辺野古新基地建設押し付けもあります。名護の住民投票に始まり、一昨年の一連の選挙結果、さらに昨年一年通して翁長知事を先頭に県民が団結して安倍政権の「辺野古が唯一」にたいして一歩も下がらずたたかい続けていることで明らかなように沖縄県民の民意は明確にノー。その民意を踏みにじる押し付け。そこからきている「屈辱」も重なって、きょうの「屈辱の日」を迎えていると言っていいでしょう。