西松安野の生存者・邵義誠さんを訪ねて(6)

  邵義誠(しょう・ぎせい)さんは、企業との長い話し合いの末に和解したことを、「賠償金が少ないという声もあったが、日本が謝罪の姿勢を示したことを評価した」と話す。しかし、「長年つかえていたものが取れた感じだが、うれしいというほどではない」とも語る。そいえば確かに西松との和解が成立したときの記者会見(2009年10月23日)での邵さんの表情は、テレビで見た限りでは、あまり嬉しそうには見えなかった。表情を顔に出さない方なのかとかと思った。ご本人にお聞きすると、「心の中にたまっていた悲しみや苦しみを日本人や日本政府に訴えたかったので、裁判に加わりました。だから、裁判に勝ちたかった。裁判で勝利できず、和解になったことに引っかかるのです」とのことだった。

 私は「最高裁で敗訴となったことに無念の気持ちを抱かれることは、もっとものことと思います。しかし、その後で勝ち取った和解です。そういう結果を勝ち取られたみなさんを、私はたいへん尊敬していますよ」と邵さんにお伝えしたが、邵さんはどのように受けとられただろうか。

 西松安野の交渉・裁判・和解と解決にいたる20年余の経過は次のようである。

 被害者・呂学文さんと孟昭恩さんが1993年8月、西松建設に公式謝罪、追悼碑と記念館建設、賠償の3項目要求を提出。95年には宋継堯さんも西松建設と交渉を行った。強制連行被害者と広島の支援者らは企業との話し合いを続けたが、会社側の拒否の姿勢は変わらず、交渉を打ち切って裁判に訴えた。

 2002年7月広島地裁は、原告らの被害事実を詳細に認定し、西松建設不法行為安全配慮義務違反を認めたが、時効などを理由に原告敗訴とした。広島高裁は和解を勧告し、そのもとで和解協議が始められたが、企業側は強制連行の事実はなかったと主張しつづけたため、協議は決裂。2004年7月、高裁は原告逆転勝訴の判決を出した。西松建設は上告。最高裁は2007年4月、中国人の賠償請求権は日中共同声明で放棄されたと判断し、原告側敗訴の判決を出した。

 献金問題などで社会的信用を失い、経営の危機に陥った西松建設は2009年、「過去の問題を今後に引きずらないという方針のもと、最高裁判決の付言に従って問題を解決する」と公式に表明し、強制連行の事実さえ否定した従来の姿勢を転換し、和解による問題解決を被害者側に申し出た。同年10月23日に和解が成立。

 邵義誠さんは、『西松安野友好基金和解事業報告書』で、和解について次のように述べている。「日本軍国主義の侵略により私たちは故郷を離れ、他国で非人間的な屈辱を経験した。日中の友人の支援を受けて尊厳と公理のために闘い、広島高裁の勝利に喜び、一審と最高裁の理不尽な判決にたいする怒りと苦しみを体験した。そして和解への道を歩き、20年前に提出した正義の要求を基本的に実現した。共に闘った多くの仲間がこの世を去ったが、新しい後輩たちが参加した。私たちは今、長年の願いを実現し、奇跡を生んだと自信をもって言える日本で初めて高裁で勝訴し、確かな事実で歴史の真実を取り戻した」