愛知における強制連行問題の取り組み(3)

5人の証言 楊東元さん】

伊屯武華出張所

地崎組のもとで強制労働をさせられた伊屯武華の中国人496人のうち、楊東元さん(日本での名前は楊東雲さん)と王洪書さんは、中国人強制連行・強制労働北海道訴訟に参加しています。二人が日本の法廷に立つ機会はありませんでしたが、札幌の弁護士が中国に行って聞き取った「陳述録取書」が裁判所に証拠として提出されました。裁判では、この内容が事実として認定されました。王洪書さんは裁判中に亡くなりましたが、楊東元さんは今も健在で、「提訴書」に名を連ねました。

中国人たちが日本でどのように過ごしたのか、楊東元さんは次のように語っています。(「陳述録取書」から)

伊屯武華出張所のこと>

列車を下りた後、歩いて住むところに行きました。あまり人のいない坂の上に臨時で作られたバラックのような小屋があり、そこに収容されました。建物は2階建てでいくつかの部屋に分かれており、その中に木の板で作られた2段ベッドがありました。

常に警察官が監視していました。

そこの地名が「イトムカ」というところであることは憶えていません。私は通訳をしていた中国人から「二古」という言葉を教えられました。

(注:「二古」は正しくは「二股」。どちらもピンインèr gǔ。楊さんは、通訳から口頭で地名を聞いていたためで、漢字表記は見ていないのだろう)

ここで、私たちは班に分けられました。1班が50人くらいで、9班の作業班があり、もう1斑は炊事班でした。人との交流は班の中だけで、他の班の人のことはよく分かりませんでした。この班の構成は、後に作業現場が移動になっても変わりませんでした。

各班にひとりの日本人が監督としてついていました。名前で憶えているのは、オオシマという人とキクチという人です。宮下という人は最初は一度はここに来たと思いますが、その後は見かけませんでした。

同じ班にいた人で名前の覚えている人が何人かいます。音で憶えていますので宇は違うかもしれませんが、同じ出身の五台県の同郷である范山海、戎休徳、河北省から来た劉米貴、江化民、杜世玉、張黒小などです。

ここでの食事は、豆の粉で作った四角いの蒸した饅頭のようなもので、そのほか野生の植物をなべで煮て食べていました。とても腹がいっぱいになることはなく、労働がきつかったのでいつも空腹の状態でした。

伊屯武華での作業は、おもに森林の木を伐採して平地にすることでした。朝早く起きて朝食を食べ、すぐに作業現場に行きました。昼は作業現場に炊事班が頭を持ってきて配りました。夜暗くなるまで働いて、宿舎に帰って夕食をとるという毎日でした。

作業中日本人の監督が作業をしている工具を使って私たちに殴りかけていたことがよくあります。

休みは1日もありませんでした。雨が降っても雪が降っても作業をしました。他の作業所でも同じで、日本が敗戦したと知った時まで1日も休みませんでした。

宿舎では、木のベッドにござを1枚敷いただけで、寝具は3センチくらいの厚さしかないふとん1枚だけで、まくらもありませんでした。寝る場所もほとんど人ひとり分のスペースしかありませんでした。

暖房があったという記憶ありません。とても寒くてここでも人がくっつきあって暖めていました。

この作業所で、23人の人が脱走しましたが、すぐに捕まって連れ戻されました。そして、みせしめのために皆が集められて、皆の前で罰として棒でひどく殴られました。その後、その人たちがどうなったか分かりません。