オホーツク民衆史講座と中国人強制連行(2)

100講記念」の第4章は「朝鮮人・中国人の受難の歴史を掘る」で、64講、65講、94講、97講および第2回道民衆史講座から編集しています。このうち「イトムカの朝鮮人・中国人労働」という報告を紹介します。

 

イトムカの朝鮮人・中国人労働

(九七講「イトムカの朝鮮人・中国人」)

(イ) 生き埋めの目撃者あらわる

網走支庁留辺蘂町には、 かつて東洋一を誇ったイトムカ水銀鉱山がある。網走支庁留辺蘂町字富士見。一九三六年の大暴風による倒木搬出道路開さく中、いも辰砂が発見され、これが端緒となって一九三九年から野村鉱業の手によって開発が始まり、一九四四年には約一八〇tの水銀を産し、東洋一の水銀鉱山となった」(北海道大百科事典〉

一九七九年、 この鉱山で従事した人々により「鉱山発祥の地の碑」が建立され、町は史跡として保存することになった。しかし、事典にも碑にも戦時中この鉱山に多くの朝鮮人・中国人が強制連行され、酷使の末埋め捨てられている事実には全く触れられていない。

一九八一年八月、 歴教協全国大会(釧路)のフィールドワーク、特別講座で、オホーツク民衆史講座の活動に共鳴した千葉熊蔵さん(六二才、北見市在住)は、大戦中のイトムカでの生き埋めについて証言した。

当時、千葉さんはイトムカで四人の仲間とともに木材の運搬の仕事をしていた。昭和十八年のある日、やせて骨と皮だけの裸同然の朝鮮人がやっとこ動ける状態でトロッコをおしていて、よろけて倒れた途端、そのまま土をかぶせられ生き埋めにされた。彼の見ている眼前で。

彼は次のようにも語っている。

イ 死体をはこぶ仕事を頼まれた。みんないやがっていたが、父親の好きな酒が一本つくと聞いて親孝行のつもりでやった。町の共同墓地に十五、 六回ははこんだ。

ロ 逃げて来た朝鮮人をかくまった。ボロボロの姿で腹をすかせていた。食事を与えおにぎりを持たせ、地図までかいてやったが、途中捕まってしまった。賞金目当で密告する者がいたからだ。