裁かれた済南新華院(1)

河北省の「石門労工訓練所」(南兵営)が、捕虜や農民にたいし思想訓練をおこない、「労工」として中国東北(「満州」)や日本に送り出した施設であったことは、<「人間地獄」と恐れられた石門収容所>でみた通りですが、山東省にも同様の施設がつくられました。それが、済南市の「新華院」です。強制連行問題の中国の専門家である何天義さんは、次のように解説しています。 

 

済南収容所は2段階の変遷がある。最初は「救国訓練所」という名称で、後に「済南新華院」という名称になり、同時に臨時の戦争捕虜の収容所もできた。

「救国訓練所」は1940年5月に設立された。済南市南の郊外・千仏山下の、現在は華北中学校のある場所につくられた。いつも数百人が収監され、多い時には1000人に上った。戦争捕虜、犯罪者と抗日に加わった人たちが収容された。そこでは、戦意を失わせ、政治的に取り込むための奴隷化教育をおこなった。侵略戦争をすすめるために民族の裏切り者を培養した。服従すれば日本側にとりこまれた行政機構や特務機関に送られる。反抗的な態度をとれば、華北および東北(「満洲」)各地に労工として送られた。しかし、効果が無いことを見た日本軍は、「救国訓練所」を廃止して、新しく「新華院」をつくった。

 「済南新華院」は、「済南労工訓練所」とも呼ばれたが、19429月に設立された。官庁街西にあり、現在は、済南幼児師範学校が建てられている。25万平方メートルのひろさがあり、新華院の指導部の下に、参事室、尋問科、警備隊、訓練隊、工場隊、農場隊、採血隊、衛生班、病棟などがあり、労工にたいする尋問、管理、教育、訓練、労役、収監、虐殺を分担した。捕虜の中の幹部を管理するため、幹部訓練班を置いた。また、奴隷化教育をすすめるため、補導班も設けた。

 臨時の捕虜収容所は、済南駅付近の済南洋行の倉庫があてられた。山東省各地の労工協会が連行してきた労工や、石家荘、北京、塘沽収容所から済南を経て青島に移送される労工を短期間収容した。>