沖縄戦訴訟控訴審判決(2)

 「国家無答責」と日本軍の不法行為について福岡高裁那覇支部判決がどのように扱ったかを見る前に、史実として日本軍がどのような不法行為をおこなったかを押さえておきたい。
  控訴人側は、国が責任を負うべき不法行為の一つに、1944年10月10日の大空襲での軍の無警戒を挙げている。米軍の空襲による被害は、東京大空襲をはじめとして日本全国で軍事施設・軍需工場だけでなく、東京・大阪などの大都市や地方の中小都市も無差別爆撃された。無差別爆撃は、第2次大戦当時であっても国際法上許されない行為とされていたはずである。日本軍の中国・重慶にたいする無差別爆撃が最初であったという指摘がなされている。その日本軍の無差別爆撃が、ブーメランとなって焼夷弾による都市への爆撃が行われ、最後は、広島・長崎への原爆投下となった。この歴史を直視するなら、無差別爆撃という反人道的な戦略攻撃を行った日米政府・軍は、責任を問われなければならない。那覇をはじめ沖縄全土でおこなわれた10・10空襲は、日本が受けた最も初期の都市無差別空襲であったと位置づけられる。同時に、この空襲は、ある程度予期されていたが、沖縄の現地軍は、まったく警戒をおこたっていた。10・10空襲で祖母を失った原告団団長の野里千恵子さんは、「空襲の前夜、軍司令官らは那覇市内のホテルで宴会をやっていて、なんの警戒もしていなかったことを本で読み、愕然としました」と語っている。この軍司令部の無作為により、那覇市内の一般住宅の9割以上が焼失した。
  しかし、この無作為はどこからきているかといえば、沖縄県民の生命を守るという思想が欠如していたことに由来する。地上戦は、硫黄島でも行われたが、全島民を避難させたうえで、1日でも長く、米軍を硫黄島に張り付けさせるための戦術としておこなわれた。沖縄では、この島民避難が極めて不十分であった。そればかりでなく、北部地域などで非武装地帯を設定し、そこに住民を疎開させることもできたであろう。地上戦での民間人被害をできるだけ少なくするための保護対策がまったく取られなかった。この点も日本軍の不法行為だと、瑞慶山茂弁護団長は指摘している。泣き出す乳児を殺害する、砲弾が飛び交う中で壕から住民を追い出すなど直接・間接的な住民殺害は明らかな不法行為であり、どんな軍国主義思想の持主であっても、これは容認しないに違いない。しかし、住民側は、日本軍の不法行為をもっと広くとらえて国の責任を問題としたのであった。

沖縄戦訴訟控訴審判決(1)

 福岡高裁那覇支部は2017年11月30日、沖縄戦民間人被害国家賠償訴訟について控訴人の請求を退ける判決を出しました。多見谷寿郎裁判長は「軍の統制下で組織的に自殺を教唆、手助けしたことにより生じた」と沖縄戦特有の被害実態に言及したことや1審がまったくふれることのなかった戦時下のPTSDにも言及したが、「国家無答責」に立脚し、控訴任側の「軍がおこなった不法行為にまで国家無答責は適用されるものではない」という主張を退けた。この論理展開は、判決文をよく見てもなかなか受け入れられるものではなく、一言でいえば屁理屈だ。控訴人からも国家の責任によって起こした戦争であり、なぜ個々の兵士の責任を認めるが国の責任を認めないというのは、あまりにも非常識だと激しい批判の声があがった。
 地上戦によって、軍人の死者よりも民間人の死者の方が多いということになった沖縄。この沖縄戦特有の事情ということを見なければならない。当時の県民60万人のうち、4分の1の約15万人が戦死し、両親や家族を亡くし生きる糧を失った人たちや、生き延びたものの身体的・精神的後遺障害に苦しむ人たちを多数生み出した。そのマイナスから沖縄は、再出発をした。それが戦後70年余、経ってもなお救済されていない。高裁判決は、地裁判決よりその認識は前進しているとはいえるが、戦争による民間人被害の救済なしに、二度と国家の責任による戦争を起こさせない「国のかたち」を築くことはできない、この視点を欠落させている。
 被害者らは2012年8月、40人が原告となり、1人あたり1100慢円の損害賠償を求めた。その後の追加提訴で原告は79人になった。2016年3月、那覇地裁は、戦前の国家の行為について責任は問われないとする「国家無答責」を根拠に原告の請求を棄却。また、事実認定は一定程度行ったものの、精神的後遺障害にはまったくふれない不当なもので、原告は、判決を不服として控訴した。

米ジュゴン訴訟報告会から

 名護市辺野古の基地建設がジュゴンに悪影響を与えるとして沖縄県民3人と日米の環境保護団体などが米国防総省を相手に工事の中止を求めた米ジュゴン訴訟で、サンフランシスコ連邦地裁は来年5月24日に審理を行うことが決定しています。現在は、5月のヒヤリングまでのディスカバリー期間で、情報公開制度を活用して情報をとる、裁判勝利に向けて全力で準備をする非常に重要な期間だといいます。そのなかで、自然保護団・米生物多様センター(CBD)が、辺野古や高江で現場を見、住民らと交流することで、裁判闘争の力にすることを目的に来日しました。12月2日、那覇市の自治会館で報告会を開きました。

 

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マイクを持っているのが真喜志好一さん 

 

以下、メモから
 【籠橋隆明弁護士のあいさつ】
 2003年に提訴し、10年以上たたかっている。辺野古新基地はアメリカが使うが、新基地建設をめぐる争いは、日本国民と日本の政府で、アメリカはどこにも出てこない。しかし、アメリカ政府も当事者だ。こう考えてアメリカで裁判をおこなうことを考えた。沖縄県内では那覇の弁護士たちが奮闘している。
 辺野古基地を建設しているのは日本政府であり、なぜ米国がさばけるのかと疑問に思っている人もいるだろう。日本国政府は、キャンプ・シュワブに造るには、米国の許可がいる。米国政府は、やるかどうかを決める権限を持っている。米国政府が基地建設をコントロールできる。そこに私たちは目を付けた。実際、基地建設の中身について、どんな基地がいいかも米国政府がすべて決めている。辺野古新基地建設を進めているのは日本政府だが、本当の主人公は米国政府だ。
文化財保護という法律がアメリカにある。その法律に、アメリカ政府は、世界の文化財を守る義務があるという条項がある。アメリカ政府には、日本の文化財を守る義務がある。ジュゴンは、日本では文化財保護法文化財として規定されている。だからアメリカ政府は、ジュゴンを守る義務がある。このアメリカの法律を、アメリカ政府が求めている辺野古新基地建設に適用させようとしている。
国防総省は、当初、ジュゴンは生き物だから文化財ではないと言っていた。しかし裁判所は生き物で会っても文化財であると言って国防総省の主張を退けた。そのうえで裁判所は、違法な状態であると判断している。サンフランシスコ連邦地裁で負けたのは、裁判官が代わったからだ。それが高等裁判所に行って、地裁判決が退けられた。アメリカの友人たち、アメリカの弁護士たちが奮闘して差し戻しになった。
 この裁判の意義がもう一つある。この裁判を通じて、アメリカの中に友人をつくることだ。今回、CBDメンバーを迎えることができたが、最も重要な到達点だ。これまでたくさんの成果を築いてきたが、それらすべて出し切って勝ちたい。沖縄の皆さんと一体感があって初めて勝てる裁判だ。連携を深め裁判を進めたい。


 【CBDの弁護士 Miyoko Sakashita】
 やんばるに行き、交流ができてよかった。辺野古でとても戦闘的にたたかっている若い女性が取った行動は、自分の土地に入れないのはどういう気持かということだった。大浦湾は、中に入れない制限地区で、ジュゴンに必要な海草がたくさんあるところだった。そこが破壊されようとしている。NHPA法(米文化財保護法)は、文化を保護して行こうという仕組みを持った法律です。その法律の根本部分には、米国政府は世界中の文化財を守るというものがあります。なぜ、この法律を適用させるのか。それは、米国でも適用できる数少ない法律だからです。NHPA法はアメリカの法律だが日本の法律を受け入れることができるからです。(日本の文化財法で守られる文化財があるなら守りましょうということ、というのが会場での和田重太弁護士の補足)
 CBDと日本が一緒にやっていくことが、この裁判の勝利のポイントです。私は、明るいものになるととらえている。それは、米国防総省が、工事がジュゴンに対して、生息地に影響を与えることはないというばかげたことを言っているからだ。大浦湾をまもること、そしてNHPA法を適用させる初めての取り組みとなっているということだ。
 NHPA法を適用させ、次のステップに向かい、最終的にはアメリカが基地建設を諦めるようにさせたい。護岸が造られようとしており、危機的状況に来ている。どのように協力し合って、たたかっていけるか、ぜひ、みなさんと話しあいたい。
ジュゴンにとってもオフリミットとされている海を開放させることが最終目的です。


【CBD Peter Galvin】
 訴訟とはソーシャルムーブメントとらえている。
 米国防総省の文書から、1966年から辺野古に基地をつくることを狙っていたことがわかった。米国政府が日本政府に対して基地が満たすべき項目が詳細に書かれている。ドアノブがどうでなければいけないかということまで書かれている。
米国政府は、地元の、影響を受ける人と直接話さない、東京と話すという態度です。この訴訟は初めて、裁判所によって米国政府が沖縄の人と一緒に座って、きちんとその目で確かめて、ジュゴンの飼育環境が壊されよとしているか確かめなさいという初めてのことです。実際にはうまくいっていない。どんなにひどいことが行われているか、米政府は直接、地元(沖縄)の人と話し合うというプロセスを避けようとしている、何が行われているか、暴露されることを恐れています。国防総省が初めて沖縄の人々と話し合わなければいけないプロセスが始まろうとしているのです。
辺野古基地建設の歴史を考えるときに、エイリアンとアバターを思い出す。同じシチュエーションだ。エイリアンは、地球を襲ってきて彼らをやっつけるのは困難だ。エイリアンとの戦いに負けるのは想像できないことだ。アバターは、私たちのケースに近いと思う。手にいれられない物質を手に入れようと行こうとする。その映画で見たようなことを大浦湾でみたように思う。アメリカムービーのいいところは、エンディングは正しい人たちが必ず勝つ。
 訴訟の中で、どのように展開されていくか。5月までは集中的にたたかっていかないといけない。オスプレイに対しても影響を与えるぐらいにどんどんやっていかなければならない。
 きょう会場にきている(先住民族の)マティさんは、スタンディングロックのたたかいをやった。世界中に知られることになった。辺野古についても政界中の人たちに何が起こっているのか、何が問題か知らせていきたい。
 1回目の訪日では、真喜志好一との出会いがあった。2回目は、やんばるの森を見た。やんばるの森は地球上でも重要な森の一つだ。そこにヘリパッドが造られている。ノグチゲラの生息地だ。ヘリパッドだけでも十分負荷がかかっている。おそらくオスプレイが追加され、大きな影響を受ける。騒音、振動がノグチゲラその他に影響を与えることははかりしれない。今回5回目の訪問で、ジュゴンを見ることができた。といっても博物館で、だ。生きていないものだったが、それでも感動した。次は6回目。それでも見れなければ、そのあと、ジュゴンが自由に沖縄の海を回遊している姿を見たい。


【吉川秀樹】
 サポーターとしてかかわっている。国防総省がやったという協議について話したい。二つある。国防総省自体が日本のとんでもないアセスを取りいれたことだ。2点目。国防総省は県教育委員会、名護市の教育委員会に行ったと書いて、いかにも沖縄で話し合っているように書いた。それを検証するために、県庁や名護博物館で来ていましたか、聞いていましたかと聞きました。「来てないはずよ、記憶もないし、記録もない」というのが答えでした。やはり、国防総省が沖縄の人と話し合うと、基地はつくれないことが分かる。
                     ◇
 同訴訟は、2003年9月に提訴。原告は、ジュゴンは日本の文化財保護法で天然記念物に指定されており、基地建設にあたって米国防総省は米文化財保護法(NHPA法)に基づき、ジュゴンの保護策を示すよう求めました。
 2015年2月、連邦地裁は、司法による政治介入を避ける「政治問題の法理」を理由に原告敗訴の判決を出しましたが、今年8月、サンフランシスコ連邦高裁は、「原告らは差し止めを請求する原告適格を有し、差し止め請求は政治問題ではない」との判断を示し、差し戻しを決定しました。

「たたかう民意」と総選挙(3)

 1区ではどうか。
 「比例(代表選挙)を軸に」ということが基本方針になっている共産党ですが、那覇市では比例選挙のことはほとんど言わず、「オール沖縄の赤嶺」と小選挙区に絞っていました。これで比例は共産党以外の政党(立憲民主党とか社民党とか)にと考えている人たちも無党派の人たち、保守のひとたちも「翁長知事を国会で支える候補者を」と、わが選挙のように思い、行動できる扉が開かれたのでしょう。県政与党の人たちだけでなく、辺野古に通う人も子育て中のママもマイクを持って応援したりしていました。歴史教科書に日本軍による強制集団死の叙述を求めて運動を長年続けているご高齢の方が、自宅のそばで毎朝、赤嶺がんばれとスタンディングをしておられましたが、こうした一人ひとりの市民が自覚的に選挙運動に加わった――これがラストスパートで相手候補を抜き去る力となったのでしょう。
 もちろん翁長雄志知事、城間幹子那覇市長、稲嶺進名護市長も連日、赤嶺候補の当選に駆け付け、街頭で声をからしました。知事と両市長が応援に立てば、赤嶺候補がまぎれもなくオール沖縄の候補であることが一目瞭然となりますから、大きな力になります。
稲嶺市長の応援を紹介しましょう。ある団地で応援に立ったとき、1枚の写真を取り出して、こう話しました。「この写真、覚えておられる方もあるでしょう。県外移設を掲げて当選した議員が、中央の圧力で公約を投げ捨てた。こういう人たちに沖縄の未来は託せない」。写真は、「平成の琉球処分」と呼ばれる2013年11月25日の自民党の石破幹事長の辺野古移設容認記者会見です。石破氏の後ろには沖縄県関係の5人の国会議員が座らされ、うなだれています。建白書を投げ捨て、辺野古容認に走った政治家を許すことはできないという、心の底からの怒りです。
 そういえば、昨年の参院選でも、自民党の候補者に写真をかざして、公約を破ったことを説明せよと迫る有権者がいたそうです。「島売りアイ子」と書いたTシャツを着て街を歩く人もいました。ある人曰く。「彼女は、真っ先に寝返った。沖縄担当相になれたのは、その論功行賞さ」
 シュワブゲート前に座り込んでいる人に話を聞くと、「家を出るのは朝5時すぎだが、4時には起きて準備する」といいます。これを週に3回、4回。すごいエネルギーです。機動隊の暴力的排除で、腕にあざができて痛くても座り込みをやめないといいます。平和への願いと怒りの蓄積が、政府の責任を問う選挙のときには、行動のベクトルに転換するのだと思います。
 4区の場合、あまり確かなことはいえないのですが、比例で奇跡的に復活した「策士」といわれる候補者の動きが報道されています。自民党候補との「票のバーター」です。こういうことがあってもそれを乗り越える選挙に、残念ながらできなかったということです。しかしそれにとどまらず、4区は全体的に自民党にリードされているという指摘も聞きました。 議席を奪い返すという自民党の執念に競り負ける部分があったということは、来年1月の名護市長選、11月の知事選にとって重要な教訓です。
 「弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ」。瀬長亀次郎さんの言葉です。全国の「友」の熱い支援を沖縄は待っています。

「たたかう民意」と総選挙(2)

 今回の衆院選で、沖縄では、辺野古新基地建設問題が最大の争点になりましたが、高江でのCH53Eの炎上もこれに重なりました。
 選挙のテコ入れで沖縄入りした岸田文雄政調会長は、急遽、日程を変更し、ヘリ炎上翌日に東村役場を訪れ、村長に自民党としても政府と一体となって事件に対応すると説明しました。沖縄の自民党は、これでは選挙にならないと危機感を強くもち、政調会長に東村に行ってもらうようにしたのだろうと思います。

 村長の隣に座った(岸田氏の側ではなく)比嘉なつみ3区候補は、岸田氏に涙ぐみながらこう訴えました。「私どもも自民党の人間でございますが、やむなく受け入れてみんながんばっているということをご理解いただいてしっかり対処していただきたい」


  高江では、6つの着陸帯の建設で、米軍の訓練が激増し、墜落の不安が大きく高まりました。にもかかわらず政府は、北部訓練場の過半の返還で沖縄の基地負担軽減とうそぶきつづけています。

 「ヘリパッドいらない住民の会」は、着陸帯完成後もあきらめず、運動を続けてきました。県議会も全会一致で着陸帯の使用禁止を決議し、東村議会も同じように決議しました。こうした住民の声、村や村議会の動きに対応しなければ、決定的に見放されてしまい、選挙にならない、自民党候補にそう思わせ、行動させるところまで追い詰めたといえるでしょう。翁長知事流に言えば、「たたかう民意」の勝利でしょう。

「たたかう民意」と総選挙(1)

 沖縄の今回の総選挙は、4つある小選挙区のうちオール沖縄は1-3区で勝利し、4区は接戦でしたが、自民に議席を奪われました。「オール沖縄の一角がくずれた」という見方が蔓延しているようです。表層だけ見ていると、そう見えるでしょう。しかし、もっと掘り下げて見ると、違った様相が見えるのではないでしょうか。
 公示前の大方のメディアの予想は、2区・3区はオール沖縄の候補、つまり照屋寛徳さんと玉城デニーさんですが、自民候補を圧倒しているが、1区・4区、赤嶺政賢さんと仲里利信さんは自民候補と激しく競り合っているというものでした(。自民候補がややリードと出た翌日の他紙にはオール沖縄の候補がやや優勢、さらにその翌日にはまた自民候補が先行、というように情勢分析が目まぐるしく変わりました。それが投票日まで続きました。1区は、ひょっとしたら投票箱が閉まる直前の数時間で勝敗が変わったかもしれません。
 2区・3区は、米軍基地が多く、爆音にさらされ、命を削られる思いで暮らしている地域です。照屋さん、デニーさんは個人人気も非常に高く、そのうえに繰り返される米軍の事件・事故…。
 浦添市うるま市市長選挙で、オール沖縄の候補が敗れたから、オール沖縄の力は弱まっているとさんざん、報道されました。その二つの市は、2区・3区にあります。この見方では、大差でオール沖縄の候補が勝ったことを十分に説明できません。多少の誤解を覚悟であえて言えば、両市のオール沖縄の候補が、辺野古新基地建設反対の旗を高く掲げて訴えたのかという点がありました。うるま市の候補者は、辺野古のゲート前にはよく来ていましたので辺野古新基地建設反対の姿勢ははっきりしていましたが、実際の演説では後景におしやられていて、これではオール沖縄の強み「建白書実現のためにみんなで力をあわせて政治を変える(沖縄県や名護市・那覇市の場合は、知事・市長を支える)」-これが発揮できないように思いました。角度を変えれば、辺野古新基地建設が大きな争点になる選挙では、オール沖縄が力を発揮するということになります。     

                                (つづく)

那覇市内の朝鮮人強制連行・強制労働跡を訪ねる(2)

 『恨 朝鮮人軍夫の沖縄戦』(海野福寿・権丙卓)P155をテキストに、強制連行された朝鮮人らの那覇市内での足跡(安里の練兵場、天妃国民学校、美栄橋の積徳女学校、那覇港、城岳)訪ねたことを8月21日のブログで書いた。その続きである。


 これらの場所を歩いて思うのは、決められたコースではあったろうが、およその地理は頭に入っていただろうということである。徐錫華が「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです」という判断がそれを示していると思う。

 ただ残念なのは、このテキストが被連行者本人の記憶を生の形で記述するのではなく、その多くが、研究者の要約で書かれているということだ。以下、朝鮮人が体験した10・10空襲の叙述を引用するが、貴重な体験であろうから、聞き取りの記録が読みたいものである。

 テキストでは次のように書かれている。

 

 奴隷にひとしい労働の二カ月が過ぎた一〇月一〇日の朝、 点呼時間である。
 いつもどおりの点呼をしていた小隊長が、右手を額にかざして遠くの空を見やった。軍夫たちも同様に空を見上げた。すでに米軍の空襲が予想される状況にあり、 防空壕が掘られ、 防空演習も何回となく行なわれていたから敵機来襲ではないかと思う人がいるのも当然である。高い空に朝日を受けて キラキラ光る物体が見えた。みな息を殺して探りながら、「飛 行機だ」、「違う、星だ」などとささやき合っているうちに、その物体は消えてしまった。軍夫たちはざわめいた。爆音がしたという者、それは日本の飛行機だと主張する者もいた。
 次の瞬間、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。間もなく空をひっくり返すような轟音とともに山向うから梯団を組んだ艦載機が湧き出、秩序整然と迫ってきた。小隊長はあわてて「全員退避」と命令し、どこかへ消えた。隊員たちは四散した。話には聞いていたが、初めて体験する空襲なので動顛した彼らは、砂糖黍畑に飛びこんだり、木立の陰にかくれて成り行きを見ていた。
 米軍機が最初に攻撃したのは飛行場と那覇港だった。まず日本軍の邀撃態勢を挫いておく狙いだろう。高々度で旋回していた編隊から次々と目標に向って急降下し、爆撃や機銃掃射を加えて舞い上がっていく態勢の攻撃がくり返された。グラマン戦闘機に交じって両翼にプロペラを付けた爆撃機らしいのも目撃された。
 飛行場と那覇港からたちまち黒煙が上がった。港では弾薬を積んでいた船が攻撃されたらしく大爆発音とともに火柱が上がり、兵営内の弾薬庫もやられ火を噴き、激しい音をたてた。
 港湾施設も攻撃の対象となった。彼らが二カ月間ほとんど昼夜兼行作業で陸揚げし、運搬した物資を置いておいた米穀倉庫、油槽も火に包まれた。油槽から上がった火柱が天を突き刺し、その中でドラム缶が爆ぜ、地底を揺るがせた。
 攻撃は一時間ほどつづいた後一時間ほど中断し、また再開するという形で数回くり返された。その間、わがもの顔に飛び交う米軍機に対する日本軍の邀撃はまるで頼りにならなか った。ときどき発射される高射砲は命中しない。軍夫たちがあれほど苦労して砲を担ぎ上げた高射砲陣地も、何発か発射しただけで、逆に艦載機の集中攻撃を受けた後は沈黙してしまった。期待した空中戦を挑む日本軍の飛行機も現われない。勇猛果敢と豪語した航空隊はどこへ行ってしまったのか。
 艦載機群が空に吸いこまれるように消え去りひと息ついた午後からは、攻撃目標が那覇市街に転じた。戦爆連合の大編隊で飛来した米軍機は密集した市街地を無差別に爆撃した。大型機は、遠くから見ると筆箱のような形の物を投下した。筆箱は地上に落下した途端、爆発しながら恐ろしい火を吐き出し、炎があたりを包んでしまうのである。後で分ったことだが、それが焼夷弾だった。
 まともな訓練を受けたことのない那覇市民はただ逃げまどうばかりだったが、日本軍もちりぢりになり、応戦も、防火も放棄したようだった。
 第二波攻撃の潮が引いた頃合を見はからって、気もそぞろに市内中央通りに逃げた徐錫華は、市内の混乱をつぎのように語っている。
 「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです。中央通りは行き先もきめずに逃げまどう男女老少でいっぱいでした。みな右往左往して悲鳴をあげているのです。そんな群衆の中へ、一〇人あまりの兵隊が、二頭の馬に牽かせた砲車とともに飛びこんできたのです。爆撃で興奮した馬は猛々しくなっているし、兵隊たちも頭が混乱して無茶苦茶に馬を追い立てるのです。馬蹄で蹴られて叫ぶ人、砲車に轢かれた女の人、つまずいて転ぶ人、大変な騒ぎになりました。その時、三度目の空襲があったのです。今度は無差別攻撃で、私は橋の下が安全だと判断して、いも畑や黍畑を抜けて橋の下に飛び込んだのです。そこでは、沖縄の人や兵隊が茫然として火の海になった那覇の町並 みを見ていました」

 

 もう1点、気になるのが、朝鮮人は、那覇港に入港した後、なぜ、練兵場に連れていかれたのかという点である。荷役は翌日からであり、この日は、特に作業はなかった。おそらく訓話があったのではないか。

 「軍夫」であるから朝鮮半島で入隊させられたときに軍の教育(行進や、大東亜精神などの訓話)は受けさせられたであろうが、日本でも改めて行ったはずである。
 中国人強制連行の場合、「中華報国隊」などとして中国人を隊編成した。労働現場ではまず「入村式」をおこない、中国人の隊長と日本の軍人が講和を行っている。あくまでも敵国の人々であるが、表面上は「帰順」した集団として扱っている。「一視同仁」の朝鮮人とはいえ、国防保安法の対象であったろうから、それ相応の監視下に置くし、精神的な指導も手を抜かなかったであろう。


 「軍夫」問題の研究の歴史は、これからひもとかなくてはならないが、こうしたこともすでに解明されているのだろうか。