沖縄での朝鮮人強制連行 1972年の「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団」報告書を読む

 「沖縄の日本復帰を契機として、かつて沖縄戦に強制連行された朝鮮人にたいする虐待、虐殺の実態と真相を調査」する目的で、日本の弁護士3人、評論家1人、在日本朝鮮人総連合会4人の構成で「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団」が結成され、1972年8月15日から9月6日まで3週間にわたって沖縄で調査が行われた。
 団長は、日本弁護士連合会人権擁護委員長の尾崎陞氏で、調査にあたっての記者会見で同氏は、「最近になって日本軍による大量虐殺が沖縄で行われたことが明らかになったが、戦争中、強制連行された数万の朝鮮人がどのような運命をたどったかその事実を調査したい。多くの朝鮮人が本土防衛の名のもとに過酷な労働に従事させられ、虐殺され、死んでいったが、これまで明らかになったものでは久米島の谷川登さん(朝鮮人)虐殺、西表炭鉱のたこ部屋での虐殺、渡嘉敷島での惨殺などがある。こうしたことを再び起こさないためにも十分事実を調査する必要がある」と述べている。
 県史編纂室、那覇市史編集室などの協力を得て資料を収集したのち、3班に分かれて沖縄本島をはじめ宮古八重山、西表、久米島、座間味、渡嘉敷、伊江島などで現地調査を行った。調査結果は「第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団報告書」として小冊子にまとめた。
 調査に協力した沖縄県内の団体は、復帰協、県労協、沖縄人権協会、革新共闘弁護団、沖教組、沖縄平和委員会、自治労などであった。

 どのような調査結果がえられたのか、報告書を見てみよう。まず、座間味島では、どうであったか。

 

 ここ(座間味島)に送られた朝鮮人数は、『公式記録』としては、特設水上勤務第一〇三中隊(第二、第三小隊〔一分隊欠〕欠(ママ)の約三〇〇名である。
*「作業援助要員として二月中旬沖縄本島から・・来島」(『沖縄方面陸軍作戦』)
*壕を掘りおわったあと、軍は、一九四五年二月一六日に本島に移動した。そのあと市川中尉を隊長とする水勤隊が入って来た。二〇〇~三〇〇名だったと思う。座間味国民学校に特幹隊と入れかわりに入った。(宮城初枝氏)
 朝鮮人「軍夫」たちは食糧もろくに与えられず「特攻艇」の壕掘り、陣地構築、弾薬、食糧運搬、荷役などに朝早くから日が暮れるまで一日中、酷使された。
*かれらには「はんごう」一杯の食糧が一日三人分の食糧として与えられただけで労働は激しく、ひどい状態だった。一〇〇艇ほどの艇(特攻艇のこと)をかくす壕ほり、壕の支柱にする木材の切り出し、弾薬倉庫の建設、荷役、そのほか特技のある人たちは軍靴の修理、被服のつくろいなどに使われていた。伐材は、朝早くから日が暮れるまで一日中やっていた。切り出した坑木は山から座間味のうらの浜まで一時間もかかる急こうばいの道を運ばされた。壕掘りでは、ダイナマイトの事故で死んだ人もいたし、落盤事故もあった。(宮城初枝、高良一夫、島袋栄次郎、大城スミエ氏らの話)
 米軍上陸後、日本軍は朝鮮人をほうり出した。
 「軍夫」たちは、わずかではあったが得ていた軍の食糧もえられなくなった。地理もわからぬところで、恐ろしい飢餓状態におちいったのは当然である。
 かれらはやむをえず食糧を求めて浜へむかった。そして射殺された。
*米軍上陸当時、日本兵一人と朝鮮人一人が阿佐部落の海岸へ食糧をさがしに出て米軍に射たれた。(高良、島袋氏)
 日本軍は、このように朝鮮人をやっかいもの扱いにして投げだしただけでなく、自らも、かれらに死を強要し、あるいは直接手を下して殺害した。
*阿佐の浜では日本兵に軍夫一名が斬殺された。(当時防衛隊のある青年が目撃) その他、日本軍が夜中に軍夫を殺して埋めたというウワサもある。
*戦後五~六年ごろに座間味国民学校の工事場で、白骨死体二体が発見されたという。  ここには、戦時中、朝鮮人軍夫が入っていたが、米軍の爆撃をうけた。また米軍上陸後は米兵の死体埋葬地になっていたが、朝鮮人「軍夫」が使われていた。米軍が引きあげるとき米兵の死体は一体ずつ確認してすべてもち去ったから白骨は米兵のものでないことは確かだ。(宮里氏-教員)
*一時期、ここにも「収容所」があった。座間味島阿嘉島日本兵それに朝鮮人たちが収容されていた。(これに関しては阿嘉島の部分で述べる)
ここにも、いわゆる「慰安婦」として朝鮮女性七名が一九四五年一月ごろに連れてこられて死んでいる。他のばあいと同様に、かの女らのその後のことは不明である。
*エイコ、コナミ、ミエコ、池上トミヨなどの七名である。うち一名が死亡。一九四五年三月二六日ごろ森井中尉と同じ場所で死んでいた。エイコである。銃弾による死亡といわれている。(宮城氏)
                (以上、引用終わり)
 「朝鮮女性七名が一九四五年一月ごろに連れてこられて死んでいる」という記述は、「一名が死んでいる」とすべきところであろう。「米軍上陸当時、日本兵一人と朝鮮人一人が阿佐部落の海岸へ食糧をさがしに出て米軍に射たれた」という証言は、「朝鮮人をやっかいもの扱いにして投げだしただけでなく、自らも、かれらに死を強要し」たとする総括と相反するのではないか、などの疑問を感じる箇所もある。
 調査団が沖縄で調査活動をしている期間に、安仁屋政昭氏の「沖縄戦に連行された朝鮮人」という記事が掲載された(1972年8月31日、9月1日付)。当時、沖縄の歴史研究者が沖縄における朝鮮人強制連行をどのように把握していたか、参考になろう。

 

 慶良間列島では、渡嘉敷島に二百十人、座間味島に約三百人、阿嘉島慶留間島に合計約三百五十人の朝鮮人軍夫が配属されていたということは、防衛庁の記録にも出ている。
 この数字は、米軍上陸直前(昭和二十年三月)のものであり陣地構築の最中には座間味島だけでも、約八百人配属されていたといわれ、その大半は那覇へ引きあげたらしいという。この軍夫たちは戦闘中、どのような待遇をうけただろうか。座間味島の場合をみてみましょう。住民の証言によると、牛馬のように扱われたわけではないが、食料も十分でない上に、暗にスパイの疑いをかけるような扱いで、戦闘中(昭和二十年三月下旬から四月上旬)は砲弾運びをさせられていたということである。砲弾運びは島の女子青年までも動員して行われたので、朝鮮人軍夫だけがことさら危険にさらされたわけではないという。この島では三月二十八日から数日にわたって集団自決が行われ、軍人の死者三百七十六人を上回る三百七十九人の住民の犠牲を出した。三百七十九人のうち三百五十八人が自決による死者であることからみても、このすさまじさが分かる。ところでこの凄惨な悲劇のさなかに、朝鮮人軍夫の十数人が住民とともに自決して果てたということである。そのときの状況や心情は知るすべもないが、慶良間列島は十重二十重に軍艦で取り囲まれ、空と海から砲弾の雨をたたきこまれて、島の人びとが絶望した状況はよく分かる。座間味島を制圧した米軍はその後、座間味部落に病院を置き、遠く伊江島渡嘉敷島での負傷者を運び込み治療にあたったようだ。この負傷者の中にも朝鮮人軍夫がかなりいたようだが、この病院でノドに米粒をつまらせて息絶えた軍夫を目撃した証人もいる。
 座間味島の阿真部落には慰安所が置かれていて女将の池山トミヨ以下七人の慰安婦がいたことが確認されている。すべて朝鮮の婦人であったという。そのうち一人は戦闘中に森井少尉と自決し、六人は戦後ひきあげたということだがその後の消息は不明である。この島における軍夫の死者は百五十といわれるが、確証がない。
                         (以上、引用終わり)

 

 「朝鮮人軍夫だけがことさら危険にさらされたわけではないという」とする住民の証言について、安仁屋氏はおそらく「差別はなかった」と判断されているのではなく、朝鮮人に加えられた虐待をただちに朝鮮人差別と断定することに慎重な態度で臨まれているのであろう。「朝鮮人軍夫の十数人が住民とともに自決して果てたということである。そのときの状況や心情は知るすべもないが、慶良間列島は十重二十重に軍艦で取り囲まれ、空と海から砲弾の雨をたたきこまれて、島の人びとが絶望した状況はよく分かる」という慎重な考察からも氏のスタンスがにじみ出ているように思う。

 

 次に石垣島での調査団報告を見よう。

 

(イ)飛行場建設、拡張工事について
 石垣島における飛行場建設、拡張工事は、平得(建設)、 へーギナ(拡張)において一九四三年八月頃から 一九四四年五月頃までの間に行われ、この工事には朝鮮人および徴用による地元民多数が動員された。
 工事は、当時もっぱら海軍関係の工事を請負っていた原田組が請負い、その下請の管組の下に朝鮮人労務者が多数連れて来られた。その人数は、当初二〇〇人位であったのが増員され、最盛期には六〇〇人以上が動員された。
*原田組事務員であった識名朝永氏の証言による。
工事に動員された朝鮮人労務者の実態は、ダイナマイト使用による岩盤の破砕、破砕した岩石の運搬であったため、怪我人が多く、牧志医院の一〇畳位の病室には手、目に大怪我をした多数の朝鮮人労務者がいた。
*中山忠享氏の証言による。
*死傷者も多数いたと思われるが、組長管朝吉名義により、三度の火傷による死亡届が出されているだけである。
 地元の住民は朝鮮人労務者がダイナマイト技術をもっていたと考えていたようであるが、これが事実に相違することはこの多数の怪我人の発生をみても明らかである。
 朝鮮人労務者は、平得飛行場近くに造られた屋根、壁ともにかや葺の、特別の宿舎に入れられていた。食糧が不足していたので、地元の人たちにとうがらしやさつまいもをもらいに来ていた。
*当初、原田組が平得に来る直前頃には、「朝鮮人乱暴だから婦女子は夜間外出をしないように」という注意が流されていて、地元の人たちは警戒心を強めていたらしいが、とうがらしや、いもをもらいに来たかれらの態度が意外に丁寧だったので驚いたという。
(ロ)特攻艇隠ぺい用壕掘りについて
 原田組の朝鮮人労務者約四〇人は、川平湾の特攻艇(体当り用自爆ボート)隠ぺい壕掘り工事もしたが、この工事における役割も飛行場建設同様、ダイナマイトによる岩石の爆破作業と破砕された岩石の運搬で、かなり危険な労務であった。 朝鮮人労務者は、空地にかや葺の仮小屋を造って住み、付近の民家から徴発された食糧を食べていた。これらの朝鮮人労務 は濠掘りが終り、軍が入ってきたときにはすでにいなかった。
*地元住民たちの証言による。なお、宮良湾にも川平湾同様、原田組の朝鮮人労務者がダイナマイトを使って造った特攻艇用隠蔽壕がある。
(ハ)民間の壕掘りに ついて
 日本軍は大兵村の戸籍簿など非常持出用書類を入れる防空壕や「御真影」を入れる壕造りも、ダイナマイトを用いて原田組の朝鮮人労務者にやらせた。これに動員された人数は五〇~六〇名である。
*なお原田組は一九四四年五月の工事終了後、石垣島を引き揚げるとき台湾に向かうといったというが、その後の消息はわからない。
(ニ)軍の輸送について
 宮古島から連れて来られた一個小隊と思われる五〇~六〇人の「水勤隊」(暁部隊と呼ばれた)は、石垣島の真地原に兵舎作りを三班に分かれて、それぞれ班長に引率されて作業に出掛けていたが、作業は主として夜行われていた。もっぱら武器、弾薬、 糧秣などの軍の輸送に従事していた。しかし一九四四年十一月頃、石垣島に上陸し、翌年になって戦局が悪化し輸送が途絶えてからは、兵隊用の壕掘りをした。
 石垣島については、旅団命令により、開戦時より終戦時までの役所の戦時記録が一切焼却されてしまい、確定的な人数、生死者の数など明確ではないので、今後も調査継続の必要を感ずる。
(ホ)陣地構築について
 石垣島の開南と名蔵辺りに陸軍は陣地を構築しているが、これには西表島の炭坑夫までも徴用し、地元民と共に働かせた。
 軍から炭鉱主のところには資金として一日四円が支給されていたにもかかわらず、炭鉱主から坑夫達には一円二〇銭しか交付されなかったとのことである。
石垣市の厚生園(養老院)に収容されている大井兼男氏の証言による。
*この坑夫たちの中に戦前から坑夫として雇われていた朝鮮人も含まれていたことはたしかだが、その人数は明らかではない。また原田組の朝鮮人労務者がこの陣地構築に参加したかどうかも明らかではない。
 住民の証言などを総合すれば石垣島には七〇〇人以上の朝鮮人が連れてこられたものと推定されるのだが、その強制労働、死傷の実態は明らかではない。
                          (以上、引用終わり)

 

 この石垣島の報告で注目したいのは、いわゆる「軍夫」だけではなく、それ以前に、企業によって労働に従事した朝鮮人が相当数いたということである。組長管朝吉名義の死亡届に報告書は言及しているので、そのなくなった人は、「民間人」であり、「軍夫」ではなかったはずである。賃金がいいからなどと騙されてきた人たちも多かったのではなかろうか。こうしたことは、全国の朝鮮人強制労働の現場であったし、それゆえ、逃亡なども頻発した。この民間企業による強制労働の実態を明らかにすることは、「軍夫」の解明と合わせて不可欠の課題であろう。その出発点をこの報告は、突き出している。