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翁長知事。あのことば、辺野古だけでなく泡瀬でも言ってほしかった

 きょう11月8日、福岡高裁那覇支部で第2次泡瀬干潟埋め立て訴訟控訴審判決があった。裁くのは、辺野古訴訟で「独創的な理屈を作り出して」沖縄県を敗訴にした裁判長である。法廷に姿を現した裁判長を見てため息が漏れてきたが、その予想は、残念ながら当たった。
 原告団長の前川盛治さんは、「判決文は、『サンゴ類や藻場について、周辺にはかなりの分布域が残るし・・・鳥類、海生生物、干潟生態系の生息環境は相当程度保全される』と言っている。これにはびっくりだ。アセスでサンゴが見逃されているのを我々が指摘した。そのサンゴは保全できなかった。渡り鳥のムナグロ(チドリ科)は2000~3000羽来ていたが、200羽くらいに激減した。トカゲヘビも復活していない。そういう事実を無視したひどい判決だ」と怒りが収まらない。
 環境を担当した喜多自然弁護士は「泡瀬干潟の価値が把握されていない」と一刀両断。さらに、環境は十分に保全されていると判示しているが、生息地保全の原則がまったく理解されておらず、国際ルールに反する判断だと厳しく指摘した。
 原田彰好弁護団長は、行政の裁量権について裁判長がどのような考えを持っているかを最大のポイントと見たようである。「広範囲の裁量権が前提になって判断しており、それに基づいて個別要件を検討している」「行政はオールマイティーという感じでとらえているように思える」。原田弁護団長は、これにたいし、「日本の行政裁判の流れは、裁量の幅に司法判断を加えていくということがある」とのべ、この流れに反する裁判長の考え方であると指摘する。


 新垣勉弁護士は、多見谷裁判長の解釈する「裁量権」について詳細に分析し、その誤りの根源を指摘している。
 「裁判長は、仲井真知事が行った埋め立て承認は、裁量権の範囲を超えていないから違法ではないから、翁長知事は取り消しはできない、という理屈で県の主張を葬り去ってしまった」
 「なんのために法律が、あるいは法理が知事に取り消し権を与えたのかという、そもそもの取り消し権の本質をどのように考えたかというところに最終的には行きつく。行政権というのは、市民・国民から与えられている権利ですから、与えられている権利は、市民や国民のために使うように義務付けられている。だから前の知事がおこなった判断が相当でないと思った時には、市民のためになるように相当と思う判断に切り替える権利、義務があるわけです。取り消し権、行政権の本質をどう理解するかによって、今行った裁量権の行使の問題が決まる」
 つまり、市民のために行政権を行使することに由来する裁量権だということだ。それゆえ、行政の以前の判断に誤りもしくは不当な点があれば見直す裁量権が行政の長に与えられていると規定するのである。であれば、裁量権があるといっても無限定ではなく、市民の意見には真摯に耳を傾けるべきであり、司法の場では、著しく違法な点がなければ裁判所は介入しないなどということではなく、法の正義の実現の観点から判断を加えることもあるだろう。


 裁量権に対する見識のなさによって何が導かれるか。行政追認である。
 判決は、「長らく米軍基地に依存する経済基盤を有してきた沖縄市が・・・基地依存経済からの脱却及び中部圏の経済活性化を図る・・・目的で実施される事業であり」、長年にわたって多角的に検討が積み重ねられてきた計画だとも評価している。

 こういう判決の評価に対し、経済予測の甘さが指摘され、それゆえ失敗の恐れが多分にある「ハコモノ」開発と厳しく批判されてきたことは不問に付しており、問題であるとの批判が上がった。また、その活性化策が直ちに埋め立てとなることに論理の飛躍があるという指摘もなされた。
 「最終的には、これらの利益・不利益が帰属する住民が、地方選挙を通じて判断すべきものである」とも判決は言っているが、失笑するばかりである。

 辺野古訴訟では、民意を一切顧みず、「辺野古が唯一」という安倍政権の言葉をそのまま判決文に書いた裁判長が、泡瀬裁判では「地方選挙で」というのである。この裁判長は、ここまで精神の堕落を起こしているのである。
 「帰りの駄賃」という言葉がある。空爆を行った爆撃機が帰還するとき、万一に備えて残った爆弾をそこらにばらまいて帰ることを言った。この裁判長、辺野古訴訟のために沖縄にきたが、役目を終えて年度内にも本土へ帰っていくとうわさされている。それが本当なら、住民敗訴は、「帰りの駄賃」か。
 それにつけても翁長知事。あのことばを、辺野古だけでなく泡瀬でも言ってほしかった。
 「うちなーんちゅ、うしぇーてー、ないびらんどー」