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相模ダムと中国人強制連行関係資料(12)

資料6-7 芹沢氏の話

 

 K:第一回目の逃亡は何日頃でしたか?

 S:5月の節句あたりではなかったかね。1回目は日連か名倉で捕まって、2回目は6月頃か7月頃。小原の八幡様の裏でネギを掘って食べていたところを捕まったという事でしたね。3回目は知らないです。私は1、2回目の捕虜が逃げたことについて外事課のオマワリが責任逃れに私が捕虜に東京方面の方角を教えたといった。8月に私は外事課、特高だね、それに派出所に呼び出しをくって、現場から行ったんです。支那の悪いのがいてね、私と朝鮮人3,4人と監督がいたんですが、その支那の悪いのが私を指さしたんです。ですから、それから後の事は何も知らないでさあ。私は4月中旬から8月18日まで(関?)わっていたんですから後は知らないんです。

 K:では2回の逃亡の責任逃れを結局、外事課が芹沢さんに押し付けたという事ですね。・・・

 S:そういう事です。ですから私は特高課へ行ってから言ったんですよ。外事課のオマワリが5人もいて、私は現場の川で作業監督しているだけで、西も東も教えていない。特高警察が現場まで送って来るまで責任をもっている。特高警察が捕虜収容所で日の丸の旗が上で汪精衛(汪兆銘)の旗が下につけてある。それを支那の捕虜達がこれを平にしろと要求していたって話していたね。だから外事課の連中は収容所から逃げた事を自分たちの責任だと言わないんだ。しかし、私は現場に来なくとも宮城遥拝で東京の方向を知っているではないか。捕虜だって無知ではないんだって言ってやりましたよ。私だって河原にほうりだされれば川の流れが上か下かは分りますが、東西南北は分りませんよ。結局、外事課の責任逃れのでっち上げなんですよ。

 K: そういう事に対して、熊谷組では芦沢さんではない。無実だと言っていなかったんですか? それと町からも嘆願はあったんですか?

 S:町からはかなり嘆願は来ていましたね。二寸くぎぐらいの厚さに名紙が来ていました。役場の者や当時の町長、諸星さん、議会の人達が代わる代わる嘆願に来ていました。