熊谷組与瀬作業所の孫式恒の証言(21)

帰国したときのことについては、孫式恒さんは、次のように語っている。

 

私達は軍艦をおりて、ようやくこの軍艦に3000人以上が乗っていたことを知った。その中に男装の日本人女性が2人随行していた。奇遇にも北京の2700数名の売国奴の保安隊でも日本に連行され、また同一の船に乗って帰って来た。本当にかたきはよく出会う。

青島の国民党軍が私達3000人をまた閉じ込め始めて、私達に国民党の軍隊に参加し、共産党に対処するように強制した。私達は命をかけて参加しないと誓った。たとえこのようであっても、国民党は解放しなかった。私たちは、電力網に閉じ込められ、あの売国奴の保安隊は言いがかりをつけて私達八路軍とけんかして、国民党軍は発砲して、かろうじて死傷を免れた。八路軍の1人は、混乱から逃げようとして欄干の電気網にふれて感電死した。それから国民党軍は、八路軍売国奴を分けて閉じ込めた。40日後に、   八路軍は1人も国民党軍に参加することなく、1946年1月中旬、国民党は耐えられなくなって私達八路軍を放した。こうして、私達は散らばって、自分の郷里に大急ぎで戻った。解放区に入って、どこでも八路軍は私達を歓迎した。私と東光の黄宗厳が寿光に着いて、苦難を訴える大会に参加した。私達が体の疥癬をあらわにしたとき、その場にいる群衆は立ち上がって口をそろえて叫んだ:“日本帝国主義を打倒せよ、私達は二度と亡国の民にならない。”

歩いては訴えた。どこでもわれわれの訴えはみんなの強い共感を引き起こした。苦難の経歴を聞いて、会場はみなむせび泣き、私達が侵略者に抵抗し、日本でデモをおこなった場面では、歓声が起きた。恵民に着いたのはちょうど1945年の春節(1946年2月2日)だった。このうえない辛酸をともなって1946年2月16日に家に帰った。この日まさに1946年の元宵節だ。