熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(17)

 ――長野県での作業内容についてお聞きします。神奈川県と同じように砂利の採取・運搬でしたか。

 (孫)違います。砂利や砂の採取ということは同じですが、神奈川では機械からとったが、長野では地面から採取しました。

 ――長野県ではどんな工事でしたか。

 (孫)砂利を車に積んで運んだ。その砂利は大きな車に積まれたが、そのあとのことは分からない。

 ――詳しい地名は分かりますか。

 (孫)松本市の東南方向で、2里離れたところです。

 ――そこは、小さな山でしたか。

 (孫)山もあるし、川もありました。

 ――孫さんが働いた場所は、松本市里山辺というところで、地下に飛行機をつくる工場をつくる計画が進められていました。空襲で名古屋市の工場が焼けたため、松本市に移転しようとしていたのです。 

(孫)働いているところは平地でしたが、周りは山でした。

 ――孫さんたちが長野県にきて1カ月で日本の敗戦になり、工事も中止になりました。長野県での生活は、どうでしたか。

 (孫)神奈川県のときと同じようなものを食べました。1日2交代でした。昼の仕事のときは、作業現場で昼飯を食べましたが、夜の仕事のときは、寮に戻って食べてからまた仕事をしました。

 ――仕事をしているところと寮はどのくらい離れていましたか。

 (孫)1里の距離です。歩いて10分くらいです。