熊谷組与瀬作業所の孫式恒さんの証言(15)

 劣悪な労働と生活の環境に耐えられず、逃亡を図る事件も起きている。孫式恒さんは、「回想録」で次のように触れている。

 

   ある仲間が空腹に耐えきれず、食べるために逃げ出した。別の山の頂上に登ったところを日本人に捕まって連れ戻され、刑務所に入った。

 

 ――逃げ出した人がいましたね。

 (孫)2人が逃げ出しましたが、遠くないところですぐに捕まりました。一つの部屋に閉じ込められました。

 ――孫さんは、その連れ戻された人を見ていますね。 

 (孫)見たことはない。連れ戻されたのではなく、話によると監獄に連れていかれたのです。

 ――捕まって、一度作業所に連れ戻されてから、その後、警察署に連行されたのではなく、捕まって直接、警察署に連行されたのですね。

 (孫)そのとおりです。

 ――逃亡を企てた人は、2人だけですか。

 (孫)その1回だけだったように思います。

 就労顛末書は、この事件について次のように記述している。

 

 事故者二十八名中食糧不足周囲ノ情勢ヲ熟知セシタメ及内部ノ悪質者ノ煽動等ニ依リ七月十六日二名逃亡セシモ七月十七日逮捕。八月十九日四名逃亡セシモ八月二十日逮捕セラレ、連累者三名即日横浜外事課ニ引致取調ベラレ、悪質首謀者五名等十二月二十四日横浜ヨリ北海道地崎組ニ転出ス

 

 7月16日に2名が逃亡したが、翌日捕まって事件は終結していた。ところが、8月19日にまたもや4名が逃亡。翌日4名とも捕まったが、当局は度重なる逃亡事件の背景に、逃亡をそそのかす悪質なものがいるとみて「連累者三名」も取り調べた。最終的に「悪質首謀者五名等」を北海道収容所(国の委託を受けて全国から送られてきた「不良中国人」を収容した施設で、地崎組が管理)に移送した。外務省報告書「華人労務者移入・配置及送還表」では「熊谷与瀬より19.12.29 受入数5」となっている。

こうした日本側の記録をもとに「熊谷組の報告書では、横浜の警察署で1人が亡くなり、刑務所に収監中に空襲にあい、行方不明になった人が1人。5人が北海道収容所に送られています。この人たちのその後の消息は、お聞きになっていますか」と聞いたが、孫式恒さんは「消息はありません」という回答だった。

 注:元労工の朱文斌は、回想録で「还有五名劳工因受不了这种虐待逃跑了。五六天后, 有三人被抓回示众, 其余二人直到我们回国也毫无音信(虐待にがまんできず5人が逃亡した。5、6日後、3人が捕まって連れ戻され、残りの2人はわれわれが帰国するときにも音信はなかった)」と述べている。

 注:「相模湖・ダムの歴史を記録する会」の調査では、「与瀬にいた1年3カ月の間に計4回中国人の脱走事件があった」。