地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(6)

 1945年9月23日深夜におこった中国人同士の争いについて、「華人労務者就労顛末報告書」は次のように書いています。

 「警察側及事務所側ノ知リタル時刻ハ二十四日午前二時頃(平岸駅森浦助役ノ報告ニヨル)ニシテ当時駐在ノ釧路警備隊近久警部補ハ直チニ駅前現場ヲ臨検スベク駈付タルニ死体ハ加害華人等ニテ持運バレタレバ駐在警察官数名並ニ三井通訳ヲ同伴シ華人宿舎ニ劉平大隊長ヲ訪ヒ詳細諮問入ルベク交渉セルニ添付始末書ヲ認メ提供スルト共ニ屍体ノ処置方等一切日本官憲ノ介在ヲ拒絶シタリ」

 中国隊は日本の警察の捜査を拒み、日本の警察による現場検証もさせませんでした。隊長は、不穏な行動をとろうとした8名を懲戒・教育するなかで、制御できなくなって事件が起きたとする「始末書」を警察に提出しました。

 日本の警察が事件現場を検証したのは、中国隊が帰国した後の10月23日で、「華人宿舎西方半粁位ノ井戸ヨリ屍体六個堀上ゲ其現場ヨリ更ニ東方一粁ノ畠ヨリ一個ヲ掘返シ計七個ノ屍体ハ発見」され、駐在警察官立ち会いで検死がおこなわれました。「変死者検案書」は7名分作成され、氏名・年齢等は不詳となっています。「頭蓋骨顱頂部ニ約三糎長サノ打撲創及ビ骨折ニヨル陥没」とありますから、顔の変形が著しく、人物の同定は困難だったのでしょう。にもかかわらず死亡者名は、馬蘭祥30、雪山26、謝志誠35、楊井爾24、劉樹鎮27、謝霊山21、陳正朝21、張照福24の8名とされています。中国隊の劉平大隊長が提出した文書が根拠になっているのでしょう。検死後、遺体は平岸寺に運ばれました。「平岸寺住職ノ読経ノ裡ニ納棺シ茂尻火葬場ニ於テ火葬ニ付シ遺骨ハ平岸寺ニ安置保管中也。本件ノ屍体ハ書類面八個トアルモ実際発見ハ七個ニシテ附近探索セルモ見当ラズ」

 この事件にかんして、「当時、ある二人が劉平を殺そうとしていました。夜中に(隊長の)劉平が起きろ、起きろといいまして、二段ベッド上にいた者が引きずりおろされ、鉄の棒が発見されたように覚えています。どうもその二人が外に引きずり出されて生き埋めにされたようです」(唐燦氏)などの証言が得られていますが、食い違いもあり、また、被害者に近い人たちの証言が得られていません。

 石門隊の生存者・臧趁意氏が回想録で河北省饒陽県団里村の解霊山氏のことに触れています。地崎名簿は謝霊山ですが、回想録も名簿も出身地が同じであることから同一人物である可能性があり、劉氏に調査を依頼しました。劉氏は、「正確な姓名:解霊山。正確な住所:河北省饒陽県団里村。解霊山は、日本に行く時、結婚していなかった。日本で死んだので、息子、娘はいない。弟と妹はどちらも生きていて、弟と妹には子供がたくさんいる」と回答しました。臧趁意氏は「私と苦難を共にした仲間ですが、我が県の南善村の劉栓榜、団里村の謝領山がいました」と回想録に書いています。八路軍出身者が、劉平隊長の抹殺に参加したとされる人物を「苦難を共にした仲間」ということに疑問はありますが、彼は訪問者を識別することもできない状態で、答えは得られませんでした。