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地崎組石門・済南隊の31名の死亡事情について(5)

 石門・済南隊は1945年6月30日に再び北海道に移動させられました。ここでは、日本の敗戦前に病気で1名、自殺で1名が死亡し、戦後は、中国人同士の争いで8名が死亡しています。

○馬春玉

「死亡診断書」では、1945年7月4日午前1時、結核性腹膜炎で死亡となっています。地崎組の伝票類のなかに、7月5日に告別式が行われ、中隊長以上と指導員の参列で行われたことが記載されています。

○郭文和

郭文和(36歳)、1945年7月17日、死因は「自殺(剃刀による上腹部、前頸部切創)」。顚末報告書は、済南隊内部の中国人同士の特異な勢力争いの結果としています。済南隊第一中隊長だった郭文和は中国の「青幇(ちんぱん)」という「秘密結社デアリ宗教団体デアリ土工ノ親分子分ノ如キ仁義ヲモツモノ」の親分のような存在で、「内地航空工事当時ヨリ兼ケ大陸ニ於ル青幇制ニ依ル弟子(子分)ノ獲得ヲ為スベク物品ヲ恵与シ悪辣手段ヲ以テ現在三十名位ノ弟子(子分)ヲ有シ之ガ増員ヲ為シツヽアリタリ」と述べ、その勢力拡張が他の幹部たちの憤慨を買っていたとしています。

 済南隊の生存者・孔繁河氏は、南氏の聞き取りにたいし「郭さんの下で雑務をしてくれる若い、けっこうかわいい男の子がいて、その男の子を強姦して、それがばれて皆からからかわれると言うか、叱られるというか、すごく恥ずかしくて、それで首の動脈を切って死んだ」と語っています。