地崎組の中華民国勤労隊石門隊済南隊名簿について

GHQ/SCAP文書の中に「№58 中華民国勤労隊石門隊名簿 第二中隊 株式会社地崎組」「№59 中華民国勤労隊済南隊名簿 第一中隊 株式会社地崎組」という名簿がある(LS23654)。表紙は同じ字体で書かれているが、名簿そのものは第一中隊と第二中隊では字体が違い、また第一中隊の名簿様式は1段組みであるのにたいし、第二中隊は2段組みである。名簿はそれぞれ中隊で作成され、本店でファイルにとじる際に表紙をつけたのであろう。通し番号は、GHQがつけたと思われる。

1964年6月に「中国人殉難者名簿共同作成実行委員会」が作成した「連行された中国人の名簿」では、「番号1 株式会社地崎組伊屯武華出張所」の名簿は、石門隊の後ろに済南隊の名簿が並び、通し番号がつけられていたことから、石門隊が第一中隊で、済南隊が第二中隊と思い込んでいたが、逆であった。

愛知教育大学の南守夫教授(故人)に、「地崎の名簿は数種類あり、作成時期も異なるが、使用目的は不明」と教えていただいたことがあったが、この名簿は、昭和21322日に外務省に提出された「華人労務者就労顛末報告書」に添付された石門隊の6種、済南隊3種の名簿とは別のものである。いつ、どのような目的で作成されたのであろうか。

石門隊済南隊496名のうち31名が連行中および日本で亡くなっているが、死亡日時もはっきりしている。№58の名簿は、名簿が作成された時点で死亡している者の名前は記載されず、通し番号が付けられている。№59の名簿は、「六八 欠番 四月八日死亡」などと記載されている。この“死亡者情報”から№58、№59は「李海奮」が死亡した1944年6月9日よりも後、「闞照禄」が死亡する1944年7月10日よりも前に作成したということができる。

ところで、№59の名簿では、「一七八 馬春玉」の名前が棒線で消され、欄外に「名古屋ヨリ平岸ヘ●●ト共ニ死亡(平岸)」と書き込みがある。死亡診断書によれば、馬春玉は結核性腹膜炎を19455月ころ発症、6月30日に他の隊員とともに北海道赤平町平岸に移動、74日に死亡した。GHQ/SCAP文書には「平岸華人官舎立換金(昭和20年7月11日)」という伝票が残されており(LS23672)、7月5日に中隊長以上及び指導員の参列で告別式を行った費用が記載されている。このときの書き込みであろう。