東川町の中国人強制連行 赤旗が連載(3)

北海道・東川 中国人強制連行被害者を訪ねて(下)

しんぶん赤旗

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呉さん(左端)の話を聞きに来た呉さんの家族や村の人たち。左から2人目は、劉元教授=3月1日、衡水市

 

国庫負担賃金ピンハネ

  戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が収集した諸資料の中に、地崎組(現・岩田地崎建設)から押収した大量の書類が含まれています。GHQが一時期にせよ地崎組幹部を戦犯容疑で追及しようとしていた痕跡と見ることができそうです。

   裁かれる可能性

   南守夫氏(元愛知教育大学教授、故人)は、「占領軍法務担当者は、地崎組の社長だった地崎宇三郎が中国人強制労働を主な理由として戦争犯罪人として裁かれる可能性があるという見解を持っていた」と指摘しています。

  GHQが押収した地崎組関係の資料のなかに、中国人に支払う賃金を計算した表があります。

  呉錫波さんの賃金は、最初の2カ月間は「訓練期間」として、31日間働き62円、その後は、「一般期間」として129・2日間働き599・28円、諸経費を差し引いた合計は459・64円と計算されています。

  当時の日本政府は、訓練期間は1日2円、一般期間は当初「出来高払い」と基準を定めていましたが、後に、1日5円に変更し、「出来高払い」と1日5円の差額は国庫で負担することにしていました。

  呉さんは、帰国直前に賃金をもらったといいます。

  「全部でいくらだったか、はっきり覚えていませんが、1日1円くらいの計算になった」と言い、さらに、公傷で仕事に出なくても1日1円もらった計算で、日本が負けた後は、もらえなくなったと補足しました。

  この説明からすると、呉さんは、320円程度を受け取ったのでしょう。地崎組が計算した額と呉さんが受け取ったと想定される金額との差額は、地崎組が懐に入れたか、中国隊の幹部がピンハネしたということになります。国庫負担分はまるまる地崎組が手にしたことになります。

 政府は、敗戦後の休業補償も決めており、1日5円としていました。地崎組は、この分も払わなければならなかったはずですが、呉さんの話にはまったく出てきませんでした。

  暴力的に働かせ

  本人の意思とは関係なく暴力的に日本に連れてきて働かせ、劣悪な環境におき、きちんとした治療も食事も満足にさせず、給与と称して少しのお金を出していた地崎組の責任が浮かび上がります。

  呉さんは、日本に連行されてから1年3カ月後の45年12月にふたたび中国の大地に立つことができました。しかし、喜びもつかの間、天津市で強制的に国民党軍に入れられました。1年後、親族と連絡が取れ、国民党軍から抜け出して故郷に戻りました。凍傷は完全には治らず、重労働はできませんでした。呉さんは、漢方医だった父から医療の知識を学び、貧しい農民を相手に病気をみるようになりました。

 次男の呉建中さんは、「父は、日本での苦難の日々のことを家族に話してくれました。心の痛みですから」と語りました。

(おわり)