東川町の中国人強制連行 「赤旗」が連載(2)

 

しんぶん赤旗連載 北海道・東川 中国人強制連行被害者を訪ねて(中)

 

f:id:machikiso:20140301153049j:plain

衡水市勾家村の呉さん宅を訪ねる劉元教授=3月1日

 

「歩行不能多数に上る」

 

 地崎組東川出張所(北海道東川町)へ連行された呉錫波さんらが中国を出発した時は297人でしたが、船中で16人死亡、大阪に上陸してから東川に到着するまでに17人が死亡しました。

  東川に着いたときの中国人らは、労働ができるような状態ではありませんでした。地崎組が外務省に提出した「華人労務者就労顛末(てんまつ)報告書」は、「痩せ細り単独歩行不能者五十八名の多数に上り、現場責任者にありては体力回復までの間は希望者のみ就労」と書いています。

この報告書の中で地崎組は、中国人らが到着後、疲労衰弱せる華労(中国人労働者)の健康回復増進を目的として隊員全員に対し十日間連続メタポリン(栄養剤)を注射。薬代だけでも金3000円を支出したと主張しています。

呉さんは、「そういう記憶はありません」と否定し、「7日くらいお米のおかゆを飲ませました。それでだんだん回復した」と話します。 

 

医師が乗船せず

 

日本に来るまでの航海はどのようなものだったのでしょう。

呉さんは、「船の中で食べたのは、トウモロコシのおかゆだけでした。1日に3回。食べられなかったり、眠れなかったりして、体の弱い人は病気になり、死んでしまう人が多かった。薬もなかった」と証言しました。

地崎組の報告書では、多数の死亡者を出した原因について、中国人たちが暑さのため、監視の隙をみて白河(塘沽=とうこ=港運河の泥水か?)の水を飲み、ひどい下痢になったためで、華北労工協会(中国人を強制連行するためにつくられた機関)には水を買っておくようにお金を渡していた―とのべています。

医師を乗船させなかったことが被害を大きくしました。地崎組報告書は、「船中における医師の欠けたるため、遺憾の点ありしも日本に上陸の後はそれぞれの場所において入院治療を受けしめ取り扱い上遺漏なきを期したり」と弁解しています。 

 

追悼の機会なく 

 

呉さんと一緒に日本に連行された同じ村の李三亨さんと李樹林さんは、東川で亡くなりました。

「李三亨さんは、船のなかで病気になり、日本に着いてからすぐに死んでしまいました。上陸して最初に死んだ人なので日本側は棺を準備して3日間くらいまつりました。その後、死ぬ人がだんだん多くなって、すぐ火葬し、箱に入れただけでした」「李樹林さんは、34歳でした。集会のとき、床にうずくまって失禁しました。日本人になぐられ、足がむくみ、翌日死にました」

 死者を追悼する機会もなく、遺骨を納めた箱は、トイレの棚の上に置かれました。

「遺骨を見ても何も考えることはできませんでした。帰国する手段もないのです。周りの人が死んで行く様子を見て、泣いてばかりでした」と呉さんは話しました。

(つづく)