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東川町の中国人強制連行 「赤旗」が連載(1)

地崎組東川出張所で強制労働をさせられた中国人被害者の訪問記を「しんぶん赤旗」が連載しました(4月4日付~6日付)。

 

北海道・東川 中国人強制連行被害者を訪ねて(上)

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凍傷の跡を見せる呉さん=4月1日、衡水市の呉さん宅

 

「作業場は戦場」労働強化

 

「雨の降る3、4日前から痛み始めます」。深く刻まれた凍傷の傷跡をさすりながら語る呉錫波さん(85)。中国河北省の省都・石家荘市から東に140㌔の衡水市に住む強制連行被害者です。河北大学の劉宝辰・元教授とともに3月1日に訪ねました。呉さんは、1944年9月28日から日本の敗戦まで、北海道の東川町で遊水池などの造成工事などで働かされました。(尾崎吉彦)

 連行当時、15歳だった呉さん。村に来ていた抗日軍の幹部を日本軍が捕まえに来るとの情報があり、その幹部を牛車に乗せて安全なところまで連れて行きました。日本軍は、投降してきた中国兵でつくった皇協軍300人とともに村を包囲。村人を次々尋問しました。

     拷問の揚げ句に

  幹部を逃がしたのが呉さんと知った日本軍は、呉さんを捕まえ、トウガラシ入りの水を飲ませるなどの拷問を繰り返しおこなった揚げ句、同じ村の2人とともに労働力として日本に送りました。

  「連れて行かれた所は、東川です。遊水池をつくる工事で、私たちが行く前は、朝鮮人がやっていました」

  東川町を流れる忠別川上流に水力発電所を建設する計画が認可されたことから、地元農民は稲作に悪影響を及ぼすと猛反発。食糧増産も進めなければならない政府は、その対策として水温上昇施設として遊水池をつくることを決めました。地崎組(現・岩田地崎建設)が請け負い、朝鮮人や中国人を使いました。

  呉さんらが東川に来たときは、間もなく冬という季節でした。冬用の服は支給されず、中国から着て来た薄手の服のままでした。

   中国人らは、毛布を切って服に縫い付けて、寒さをしのぎました。「布団が配られましたが、1人が敷き布団をもらうと、次の人は掛け布団でした。それで2人で1組の布団を使いました」

 雪の日も工事は続けられました。川に入って石を取り除く作業もあり、ゴム靴の中に水が入ることもあり、多くの中国人が凍傷に苦しみました。

  東川出張所の日誌には、「12月15日 医者来診アリ。足モトノ不完備カラ凍傷患者続出。四十名ヲ数ヘルニ至リ本日手当ヲナス」と書かれています。この日は、総員262人中137人が病気などで「休養」。うち25人が重病で病室に「入室」しています。

      骨がむき出しに

 呉さんは、足首やかかとが凍傷になりました。きちんとした治療がされず、肉が腐り、骨がむき出しになりましたが、それでも仕事に出ました。足に布をまき、縄で縛り、半年して傷口がふさがりました。

 出張所の日誌には、▽医師の診察に中国人の副隊長を立ち会わせた。75人のうち38人が働けると診断された。翌日の出動人員は159人から186人に増えた▽日本人の指導者を集めて「作業場は戦場だ」と訓話。翌日、中国人幹部を集めて、班長中心の「突撃作業」を要請した―など、戦況の悪化とともに労働強化を求めた様子をうかがわせる記述もあります。(つづく)