愛知における強制連行問題の取り組み(8)

 次に岩田地崎建設にたいし強制連行による被害の補償と謝罪を求めている5人の生存者の一人、楊印山さんの日本での体験を紹介しましょう。

 

5人の証言 楊印山さん】(要旨)

 青島で汽船に乗って、それから北海道の留辺蘂へ行きました。それから神戸に移動して、(そこは)大きな山の奥地でした。(1944)陰暦の10月に名古屋へ行きました。10月になり(北海道は)寒くなって名古屋へ行ったのです。

 

 注:楊さんは「神戸」と言ったが、留辺蘂からの移動の際、海は渡っていないと話しており、「置戸」を「神戸」と誤って記憶していたことが分かった。

 

名古屋から15キロ離れた飛行場へ行きました。飛行場には翌年の3月までいました。3月になってから、また北海道へ戻って行きました。北海道の駅に着いた後、平岸と赤城駅(行きました)8月に日本が降伏しました。降伏した後、石家荘から行ったのは333人くらいで、済南から行ったのは220人くらいで、みな国民党の軍隊の人たちで、大部分は英語ができました。西安から行った八路軍やゲリラ隊の者はみな英語ができませんでした。あの日、日本が投降したという情報を知って、その日の午後2 時くらいに私たちはストライキをしたのです。その日の午後、いつもは中国の国旗と日本の国旗を掲揚するのですが、その日は日本の国旗は掲揚しませんでした。

 

 注:「赤城駅」は、「赤平駅」の誤り。また、ここで楊さんが言っている「西安1937年から46年まで河北省政府の所在地であった「西安市」指すと思われる。