米機による平岸中国人寮への救援物資投下(18)

日本の敗戦後、平岸の中国人らは、米軍捕虜と連絡をとるため、平岸から芦別に向けて示威行進を行うことから始め、米兵捕虜と連絡をとることに成功した。それが、米兵捕虜6人の中国人寮訪問となり、中国人らが囚われていることを将介石に伝えることと、救援物資投下による支援をとりつけたのである。

地崎組も警察もこの動きをつかみ、警戒態勢をとったが、物資投下の混乱のなかで警察官の負傷事件が起きた。この経緯は、米軍が救援作戦の一環として、平岸の中国人寮に物資を投下したことは明らかである。

この事件で、国民党軍の出身者が米兵捕虜との通訳をしたことは、中国隊のなかでどのような意味をもったであろうか。

平岸の中国人らは、二つの隊から成っている。一つは、河北省石家荘の収容所から連行された人たちで、八路軍出身者が主導権を握っていた。もう一つは、山東省済南の収容所から連行された人たちで、こちらは国民党軍出身者が多かったという。日本では、北海道イトムカ・置戸、愛知県大府、そして北海道平岸と事業場を変わっているが、いずれの事業場でも両隊が混ざって労働をすることはなく、寮も別であり、相互の交流はほとんどなかったようである。しかし、日本の敗戦という大きな情勢の変化のなかで、両隊は、自分たちの生存と帰国実現のために、一致結束する方向に向かうのは当然であったろう。八路軍と国民党軍の間での確執という問題もあっただろうが、国民党軍出身者が通訳して物資を獲得したことは、その機運の醸成に一役買ったのではないだろうか。