米機による平岸中国人寮への救援物資投下(8)

第20航空軍は、「1945年8月27日から9月20日に至る戦時捕虜への補給作戦」と題する作戦報告書に、計画策定にあたって抱えていた問題を次のように書いています。

 

「作戦を計画するに当って最も困った問題は、補給すべき収容所の位置と人口を決定することであった。 1945827日までに立案の基礎にできた唯一の情報は、合衆国陸軍太平洋戦域総司令部によって発行された「黒いリスト」(B1ack List)と呼ばれる1冊の編集物と、 太平洋艦隊司令部太平洋戦域司令部報告113-45で発行された1冊の海軍の編集物であった。 これらのリストは不完全であったし、 また、 戦争の最近数か月に激しい爆撃を受けた日本の海岸地域から、連合軍捕虜を大規模に移動したことによって、その正確さはさらに減少していた。連合軍が課した降伏条件の一つは、日本政府が全ての戦時捕虜と抑留民間人の収容所にはっきり目立つ印をつけ、全ての収容所の名称、位置、人口の完全なリストを、連合軍総司令官に提出することであった。日本側からの最初のリスト「黄色いリスト」(Yellow List)として知られるものは、827日に第20航空軍に利用ができたそれは73の収容所を含んでいた黒いリスト」については何も追加の情報は受けていなかったが、それに載っている収容所の位置を確かめる仕事が残った。829日には、第314爆撃航空回の航空機が、本州、四国、九州という日本本土にある収容所の位置を確めに飛び立った」