米機による平岸中国人寮への救援物資投下(1)

かれらは、みずからの要求を自分自身の力でかちとらなければならず、自分自身のカで労役をやめ、健康を回復し、生命を守らなければならず、即時送還のために、たたかわねばならなくなった。

したがってそのたたかいの本質は、アメリカ占領と日本政府と資本家、事業場のサボタージュに抗して、ポツダム宣言、降服文書、総司令部指令を実現すもたたかいであった。

“中国人俘虜は、鉱業所にたいし「戦時中の虐待にたいする保障、帰国、送還」などを要求し、手に手に樫の棒をもち、隊伍をくんでデモ行進した。(足尾銅山労働組合足尾銅山労働組合史」)

“地崎組平岸出張所の場合は、終戦後、憲兵が非常におそれ機関銃を中国人の宿舎にむけて「騒ぐとうつぞ」というイカクを示した。平岸の中国人は八路軍関係が割合に多く、「うてるならうってみろ」と堂々の隊伍をくんで憲兵を包囲し、武装解除し、その日本刀などをうばって自分たちのものにし、本当に自分たちの力で自分たちを解放した。”(北海道慰霊実行委員会「調査報告」一九五三年)

 

中国人強制連行事件を記録した『草の墓標』に記述されている北海道赤平市平岸日本油化工場で強制労働をさせられた中国人の、敗戦直後の日本での様子である。平岸の中国人たちの戦後についてとりあげたいテーマはたくさんあるのだが、今回は、米機による平岸中国人寮への救援物資投下についてふれてみたい。1945年9月1112日のできごとである。