地崎組東川事業所日誌の記載事項について(1)

 

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地崎東川事業所の日誌は「記事」と「点呼表」からなっている。「記事」には、「起床」「朝食」「朝の行事」「就業」「事故」「閉業」などが書かれている。それらの記事がどのようなものであるか、見てみよう。

 

[昭和十九年十月二十八日 曇天]

 起床 午前五時三〇分

 朝食 午前六時〇分

 朝の行事 午前六時三〇分国旗掲揚・宮城遥拝・宣誓・点呼

 現場就労 午前七時〇分出働人員下記点呼表迄。就労者訓練は日課表に規律作業訓練を実施

閉業 十六時〇分国旗降下宮城遙拝誓條

就労者左記の者現場に於いて腹痛を起し帰舎す 五〇番 十三時  一五〇番 十五時

午後より栗城医師の往診あり。□名経過良好に付き○○舎へ転舎す

 

中国隊は第1中隊(1班、2班)、第2中隊(3版、4班、5班)に分かれている。第2中隊5班の40名は1027日、28日、29日は全員休養している。このことからこの5班は、補充の第2次40名であることがわかる。二つの中隊を統括する大隊本部が置かれ、隊長・副長、中隊長・小隊長、書記・衛生・炊事の26人で構成されている。

点呼表には班ごとに「総員」「出勤」「雑役出勤」「休養」「入室」「死亡」のそれぞれの人数が書かれている。1班は55人の班員のうち出勤したのは38人で、「稼働率」は69%である。2班は56人のうち出勤38人で、68%。3班は52人のうち出勤32人で62%。4班は54人中42人で78%である。

日誌に「栗城医師の往診あり」とある。『増補中国人強制連行事件 東川事業場の記録』に佐藤幸子さんの回想録が掲載されているが、それによると「医療機関といえば作業現場から六キロも離れたところに街の医院が一軒あるのみだった。それが栗城医院であった。通院するには骨の露出したところにわらを巻きつけて虫のように歩いて行かなければならなかった」という。

栗城医師は日誌にたびたび登場する。この日は、腹痛で早退した2人は、栗城医師の診察により「経過良好」として所属班に戻っている。