地崎組東川日誌について(2)

第2次連行が新たな契約に基づくものではなく補充としておこなわれたと事業場報告書は書いている。契約数が空欄であること、第1次で多数の死亡者を出した原因を地崎組が調査し、塘沽港で華北労工協会が適切に労工を管理しなかったとし、責任を追及しているところからみて、華北労工協会側の負担による補充として行われたことが推測できる。

東川作業場日誌の最初は9月28日付となっており、第1次の隊が東川に到着した日である。ところが、「記事」「点呼表」にまったく記載がされていない。29日、30日も日付のみ記入されているが、中身の記載はない。このあと、日付は飛んで、次に書かれているのは1027日の分である。この日は、第2次の隊が東川に到着した翌々日である。中国人殉難者名簿共同作成実行委員会作成の「中国人殉難者名簿」によると、事業場に着いてから1027日までに事業場で亡くなったのは24人である。この間の記録がないのは、不可解である。

事業場報告書によれば、中国隊が日本に着いたときは、死者87名、歩行不能者58名にのぼった。隊の半数を超える者が亡くなったり労働ができない状況―とは。