地崎組東川日誌について(1)

中国人強制労働現場のひとつである北海道東川の地崎組東川事業所の実態について、地崎組の「日誌」から迫ってみたい。

 

地崎組東川事業場について①

GHQ/SCAP文書の中に、「昭和拾九年 日誌 地崎組出張所」と書かれた日誌が含まれている(BOX.1308 LS-23665236662366723668)。昭和191027日から昭和20年4月25日までの分である。日誌には事業所名が書かれていないが、「堰堤」「大塚所長」などと書かれていることから、地崎組東川出張所事業所のものである。

第二次世界大戦末期、日本政府は軍需物資の増産のため電力供給力を高めようと電源開発をおこなったが、その工事に強制連行した中国人を投入した。東川町の江卸発電所がその一つである。建設をめぐって、周辺農民は「水力発電所の設置に伴い、忠別川の水温下降し水稲栽培上悪影響を及ぼす」として猛反発し、日発・関係省庁に抗議行動を展開した。政府は、事態を収拾し、水力発電所を建設するため、「遊水地を設け水温の上昇を図らん」(事業場報告書)とし、その事業を地崎組に行わせた。地崎組は、鴻ノ舞鉱山で使っていた朝鮮人を東神楽の遊水地工事に回し、東川の遊水地工事には中国人を中国から連行することで、地元対策を乗り切った。

連行は2次にわたって行われた。「華人労務者移入・配置及送還表」に基づくと、第1次は297人を乗せた第7寿丸が塘沽港を昭和19年9月14日出港、925日に大阪上陸。9月28日に264人が東川に到着している。船中死亡16人、上陸後死亡17人である。第2次は41人を乗せた番澄丸が塘沽港を昭和191014日出港、1021日に下関上陸。1025日に40人が東川に到着している。船中死亡0、上陸後死亡1人である。

 事業場報告書は、第1次の隊が事業場に到着した中国人のようすを「移入に際し塘沽(たんくー)出帆後華労殆ど全部強烈なる下痢に侵され為に船中に於いて十六名、大阪上陸後十六名、青森到着の際一名、現場到着後五十四名(此の内には一部他の原因に依るものを含む)計八十七名の死亡者を出すに至る」「現場に収容当時にありては何れも痩せ細り単独歩行不能者五十八名の多数に上り、現場責任者にありては体力回復までの間は希望者のみ就労」としている。「強制連行は死のロード」と書いたことがあるが、地崎東川はその典型である。