地崎伊屯武華事業所に連行された中国人(1)

  地崎組のイトムカ事業所に連行された張兆林さんは、苦難の日々をどのように語っているでしょうか。

 

河北省寧晋県周家荘郷東魏家荘村の張兆林さんは、1942年に革命運動に参加し、偵通隊の隊員として、日本軍の兵力の増減と活動状況をさぐり、情報収集をおこなっていました。1944年正月29日(旧暦)、 敵情視察に行った時、日本軍と偽軍に捕まり、1週間、尋問を受けた後、石家荘の南兵営に送られました。2月26日、青島に送られ、ここから日本に行く船に乗せられました。『二戦擄日中国労工口述史』から)

 

 

 

下関に到着して、駅の旅館で過ごし、翌日、北の方に行く。汽車に乗り、東京へ行き、次の日の午後、青森港に着いた。夜10時、4時間船に乗り、北海道の函館に到着した。さらに札幌、小樽、岩見沢を経て、北海道留辺蘂町の地崎組に着いた。ここは酷寒の地で、加えて荒涼としている。われわれは毎日、苦痛をさんざん味わわされ、牛馬にも劣る生活だった。

 

 宿舎は、新しい木造の建物で、床下はまだ雪が解けていなかった。さらに周りの壁や天井から隙間風が入り、部屋の中の温度はマイナス20度だった。大部屋はがらんとしていて、部屋の両側に板で組み立てた寝床があるだけだった。大きなストーブが一つあったが、日本人は石炭をくべることは許さなかったのでまきをくべた。暖かくなるが、夜中は火が消え、寒くて寝られなかった。60人以上がくっついて互いを温め合った。胸はあたたかかったが、吹き付ける風で背中の寒いこと! さらに悲惨だったのは、食べたものが消化できず、腹をこわして真夜中に便所に行くことで、ひどい人になると一晩に十数回便所に行った。冷たい風にさらされ、発熱し、体はさらに衰弱した。日本人が薬をくれることもあったが、なんの足しにもならず、快方にむかわなかった。