オホーツク民衆史講座と中国人強制連行(8)

弦巻宏史氏の報告を続けます。

 

(2) 住民が建てた不戦の碑

 私がイトムカ水銀鉱山の朝鮮人強制連行労働に関して、地域住民の聞き取りを行ったのは一九七四(昭和四九)年である。

 住民が鉱山の逃亡者をかくまいながら、それを隣人にも黙して語らなかったのは、後難を恐れたからであった。私は、あの戦時下にあっても民衆のあいだに人間愛の水脈が流れつづけていたことを知った。

 しかし、私たちの運動が地域住民による中国人、朝鮮人との新たな連帯と平和の運動になったのは「置戸の不戦の碑(いしぶみ)」にはじまる。

置戸鉱山は、一九四一(昭和一六)年から野村鉱業が経営にあたり、最盛時には従業員二〇〇〇人を数えた。

水銀は銃弾の起爆装置や潜水艦の船底塗装に使われる軍需物資であり、一九四三(昭和一八)年以後、ボルネオなど南方からの補給が途絶えると、イトムカ鉱山と同様、軍の増産命令の下に生産に拍車がかかった。政府は労働力確保のため、中国の山東、河北、河南省で「労工狩り」を実行し、軍と会社は拉致、連行した民衆をきびしい監視の下で酷使したのである。

張冠三氏は中国河南省商邱県の農民であったが、一九四四(昭和一九)年のある日、町で拉致され、青島附近から大阪を経て置戸鉱山に連行されてきたのである。私たちは張冠三氏夫妻と共にかつての置戸鉱山を訪ねた。一九七六年五月五日である。曇天で重く底冷えのする山道を歩かねばならなかった。

 しかし、張老人は冷雨の中を疲れを見せずに歩いた。子どものようにかけ歩き、土を握りしめて同胞たちが掘った側溝や貯水池を説明した。雑草をかきわけて彼の働いた炊事場で当時の情況を再現した。

 

私たちは、また、彼の同胞で、彼と同じく帰国できなかった趙万珠氏(神奈川県在住)が一〇年間農業を営んだ廃屋を見た。破れ傘のように雨に沈む友人の旧居を彼は吸い込まれるように見つめ、近づいては、しばらく、立ちすくんだ。

 

その夜、置戸の有志は、張氏夫妻を囲んで歓迎の宴をもった。ひととおりの自己紹介のあと突然、田内昇氏(置戸町住民)が、張氏夫妻に両手をつき、滂沱と流れる涙もぬぐわず、

声を殺して詑びた。

「…一諸に働いた中国人にタバコをやらなかった。…すみませんでした…」

人びとは熱くこみあげるものを感じ、あらためて戦争から現在までの三十数年間を思いやった。

置戸の住民による「置戸鉱山中国人、朝鮮人殉難慰霊碑」の建碑と連帯の運動は、ここからはじまったのである。

それはまさに住民の手になる「草の根」民主主義による創意の結集で進められ、募金には「不浄の金はもらわず」(遠藤事務局長)、自治体、団体にたよらず、ドブ板を踏む原則が貫かれた。予算額を超過するからといって中止することはできなかった。住民が許さなかったからである。そして、この運動の過程で住民の共感が高まり、新たな証言が続出した。