いのち果てるまで 畑田重夫さん

 日本平和委員会結成70年記念レセプションが2月1日、都内で開かれた。国民主権戦争放棄をうたった日本国憲法が施工されたのが1947年。日本は平和な世界に向かおうとしていたはずだが、いわゆる「逆コース」で、日本は再軍備、安保条約にもとづく米軍基地が張り巡らされ、朝鮮戦争ベトナム戦争の出撃拠点となった。こうした平和の危機に直面して、日本平和委員会が結成された。以下、内藤功代表理事(弁護士)のあいさつを紹介する。

 

 戦争と平和をめぐり激動する諸情勢の中、みなさんの日頃のご活動、ご奮闘に心から敬意を表し、感謝を申し上げます。日本平和委員会は本年2月をもって創立70周年を迎えることができました。1949年4月25、26日、東京で開催されました平和擁護日本大会で、日本平和を守る会を設立することが決議されました。準備の末、1950年2月27日、日本平和委員会の前身である日本平和を守る会が創立されました。

 その創立当時は、ご案内のとおり、その直前、47年5月に平和の日本国憲法が施行されました。しかし、国際情勢の変化の中で、日本をいわゆる東洋のスイスから共産主義の防壁、アジアにおける兵器商人に変えるというアメリカの戦略の大転換がおこなわれました。この時期に立ち向かって、もう二度と戦争は許さないで、ふたたび戦争の道に逆戻りするなというのが、国民の大きな声でありました。この声にこたえて、この情勢のなかで、平野義太郎先生、大山郁夫先生、中野好夫先生(ほかにお二人の名前を挙げられたが、聞き落とした)はじめ多くの当時の著名人の方々の呼びかけで、日本平和を守る会が創立されたのでございます。

 以来70年、平和委員会は、平和・独立・民主主義を願う多くの皆さんのご協力をいただき、力を合わせ、共同の創造の一翼を担う自覚と誇りを胸に活動をしてまいりました。創立当時の先輩の方々のご努力に改めて感謝と敬意をささげたいと思います。

 1960年の歴史的安保大闘争、核兵器禁止・廃絶の運動、沖縄の本土復帰と基地撤去、全国の基地闘争、米軍・自衛隊の横暴な演習・訓練、危険なオスプレイとのたたかい、そして自衛隊の海外派兵反対、軍事費削ってくらしに回せ、自衛隊員の人権を守れ、防衛大学校学生の人権守れなどにとりくんできました。平和のあらゆる分野で、縁の下の力持ちとしての役割を発揮してきたと自負しています。やることは無限、情勢は早いが、やりがいのある楽しい仕事です。

 

 平和委員会顧問の畑田重夫さんが、閉会あいさつされた。「これが最後の上京になるかもしれない」とおっしゃり、「今年、96歳になりました。病弱な体でしたが、学徒出陣で奇跡的に生きのびた。日本平和委員会の最初からの会員で、創立70年を迎えることができ、感無量です。命果てるまで、核も軍事基地もない日本に、みなさんと一緒にたたかい続ける」とあいさつされた。声量は小さかったが、力のこもったあいさつだった。