首里城再建へ

 10月31日未明に発生した首里城火災。その火災から1週間後、首里城近くまで行った。まだ現場検証中で、規制線より中には入れなかったが、焼けたにおいが少し漂っていた。

 沖縄戦で多くの人命とともに首里城はじめとする貴重な文化遺産や資料の多くが失われたが、戦後、首里城を復元したいという県民の願いは、復帰20周年を迎えた1992年、実を結んだ。玉城デニー知事は火災直後、首里城が「琉球、沖縄が歩んできた歴史文化の象徴として、沖縄県民のアイデンティティーのよりどころ」であり、それが失われたことに「言葉を失った」とコメントし、首里城再建へ全力を挙げると誓った。

 玉城知事は、沖縄の本土復帰から50年となる2022年までに再建計画をとりまとめたい意向だ。そのため、知事は、1日、総理大臣官邸で菅官房長官と面会し、支援を要請した。政治的な立場を超えて、首里城再建へ一致して取り組むことは当然だ。

 琉球新報は、「政府は関係閣僚会議を開催するなど早期の再建を表明。安倍晋三首相は、必要な財源を含め政府として責任を持って全力で取り組むと述べており、今後、再建に向けた予算措置の在り方が焦点となる」と書き、「県民の暮らしに支障がないようにすべきだ」という声を紹介している。現段階では、政府から財源や国が出す財政規模が示されていないので、そういった懸念があるのだろう。

 首里城の所有権は国にあり、今年4月から県に移管され、県は使用料を国に払っていたという。実際の管理・運営は、美ら島財団が行っていた。防火体制は、国が管理していたときの体制をそのまま引き継いでいるという。そして、出火原因については、まだ特定されていないが、那覇市消防局がおこなった7日の会見では、正殿北東にあった「分電盤」からつながる延長コードに「溶融痕」が30カ所以上見つかったが、火災原因につながるショートを起こした痕跡を示す「短絡痕」だった可能性もあり、調べているとしていた。火災保険からどれくらい補償がでるかということも絡んで、予算うんぬんということを出す段階ではないのかもしれない。

 この機会に琉球・沖縄の歴史をひもとくべく、おもろまちの県立博物館を訪ねた。常設展を見たが、心惹かれたのが「琉球処分」。沖縄の人は、「廃藩置県」とは言わず、「琉球処分」というようだ。

  1872年、日本政府は「尚泰藩王となし、叙して華族に列する」旨宣告した。琉球藩のせっちであり、いわゆる「琉球処分」の始まりだった。琉球王国の解体をはかろうとしたのである。松田道之琉球処分官は79年、軍隊と警官隊を率いて、廃藩置県を通達した。

  尚泰王の「いくさ世もしまち みろく世もやがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」(争いの世が終わり、やがて弥勒仏の世が訪れる。臣よ嘆かないでくれ、命あっての物種だ)はよく知られている。数年前、ある研究者が「戯曲『那覇四町昔気質』が原典とされてきたが、実際の舞台では、初めからこのセリフがあったのではなく、舞台を重ねる中で付け加わった」という趣旨のことを書いていたのを呼んだ記憶がある。この「命どぅ宝」は、広く使われていたが、役者が舞台の締めくくりにこの言葉を言ったことで、いっそう見る人の心を打つものになったのかもしれない。「沖縄の心」を知るエピソードの一つだろう。