那覇市内の朝鮮人強制連行・強制労働跡を訪ねる(2)

 『恨 朝鮮人軍夫の沖縄戦』(海野福寿・権丙卓)P155をテキストに、強制連行された朝鮮人らの那覇市内での足跡(安里の練兵場、天妃国民学校、美栄橋の積徳女学校、那覇港、城岳)訪ねたことを8月21日のブログで書いた。その続きである。


 これらの場所を歩いて思うのは、決められたコースではあったろうが、およその地理は頭に入っていただろうということである。徐錫華が「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです」という判断がそれを示していると思う。

 ただ残念なのは、このテキストが被連行者本人の記憶を生の形で記述するのではなく、その多くが、研究者の要約で書かれているということだ。以下、朝鮮人が体験した10・10空襲の叙述を引用するが、貴重な体験であろうから、聞き取りの記録が読みたいものである。

 テキストでは次のように書かれている。

 

 奴隷にひとしい労働の二カ月が過ぎた一〇月一〇日の朝、 点呼時間である。
 いつもどおりの点呼をしていた小隊長が、右手を額にかざして遠くの空を見やった。軍夫たちも同様に空を見上げた。すでに米軍の空襲が予想される状況にあり、 防空壕が掘られ、 防空演習も何回となく行なわれていたから敵機来襲ではないかと思う人がいるのも当然である。高い空に朝日を受けて キラキラ光る物体が見えた。みな息を殺して探りながら、「飛 行機だ」、「違う、星だ」などとささやき合っているうちに、その物体は消えてしまった。軍夫たちはざわめいた。爆音がしたという者、それは日本の飛行機だと主張する者もいた。
 次の瞬間、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。間もなく空をひっくり返すような轟音とともに山向うから梯団を組んだ艦載機が湧き出、秩序整然と迫ってきた。小隊長はあわてて「全員退避」と命令し、どこかへ消えた。隊員たちは四散した。話には聞いていたが、初めて体験する空襲なので動顛した彼らは、砂糖黍畑に飛びこんだり、木立の陰にかくれて成り行きを見ていた。
 米軍機が最初に攻撃したのは飛行場と那覇港だった。まず日本軍の邀撃態勢を挫いておく狙いだろう。高々度で旋回していた編隊から次々と目標に向って急降下し、爆撃や機銃掃射を加えて舞い上がっていく態勢の攻撃がくり返された。グラマン戦闘機に交じって両翼にプロペラを付けた爆撃機らしいのも目撃された。
 飛行場と那覇港からたちまち黒煙が上がった。港では弾薬を積んでいた船が攻撃されたらしく大爆発音とともに火柱が上がり、兵営内の弾薬庫もやられ火を噴き、激しい音をたてた。
 港湾施設も攻撃の対象となった。彼らが二カ月間ほとんど昼夜兼行作業で陸揚げし、運搬した物資を置いておいた米穀倉庫、油槽も火に包まれた。油槽から上がった火柱が天を突き刺し、その中でドラム缶が爆ぜ、地底を揺るがせた。
 攻撃は一時間ほどつづいた後一時間ほど中断し、また再開するという形で数回くり返された。その間、わがもの顔に飛び交う米軍機に対する日本軍の邀撃はまるで頼りにならなか った。ときどき発射される高射砲は命中しない。軍夫たちがあれほど苦労して砲を担ぎ上げた高射砲陣地も、何発か発射しただけで、逆に艦載機の集中攻撃を受けた後は沈黙してしまった。期待した空中戦を挑む日本軍の飛行機も現われない。勇猛果敢と豪語した航空隊はどこへ行ってしまったのか。
 艦載機群が空に吸いこまれるように消え去りひと息ついた午後からは、攻撃目標が那覇市街に転じた。戦爆連合の大編隊で飛来した米軍機は密集した市街地を無差別に爆撃した。大型機は、遠くから見ると筆箱のような形の物を投下した。筆箱は地上に落下した途端、爆発しながら恐ろしい火を吐き出し、炎があたりを包んでしまうのである。後で分ったことだが、それが焼夷弾だった。
 まともな訓練を受けたことのない那覇市民はただ逃げまどうばかりだったが、日本軍もちりぢりになり、応戦も、防火も放棄したようだった。
 第二波攻撃の潮が引いた頃合を見はからって、気もそぞろに市内中央通りに逃げた徐錫華は、市内の混乱をつぎのように語っている。
 「飛行機が港と軍需倉庫を攻撃しているのを見て、市内が安全だと思って市内へ逃げたのです。中央通りは行き先もきめずに逃げまどう男女老少でいっぱいでした。みな右往左往して悲鳴をあげているのです。そんな群衆の中へ、一〇人あまりの兵隊が、二頭の馬に牽かせた砲車とともに飛びこんできたのです。爆撃で興奮した馬は猛々しくなっているし、兵隊たちも頭が混乱して無茶苦茶に馬を追い立てるのです。馬蹄で蹴られて叫ぶ人、砲車に轢かれた女の人、つまずいて転ぶ人、大変な騒ぎになりました。その時、三度目の空襲があったのです。今度は無差別攻撃で、私は橋の下が安全だと判断して、いも畑や黍畑を抜けて橋の下に飛び込んだのです。そこでは、沖縄の人や兵隊が茫然として火の海になった那覇の町並 みを見ていました」

 

 もう1点、気になるのが、朝鮮人は、那覇港に入港した後、なぜ、練兵場に連れていかれたのかという点である。荷役は翌日からであり、この日は、特に作業はなかった。おそらく訓話があったのではないか。

 「軍夫」であるから朝鮮半島で入隊させられたときに軍の教育(行進や、大東亜精神などの訓話)は受けさせられたであろうが、日本でも改めて行ったはずである。
 中国人強制連行の場合、「中華報国隊」などとして中国人を隊編成した。労働現場ではまず「入村式」をおこない、中国人の隊長と日本の軍人が講和を行っている。あくまでも敵国の人々であるが、表面上は「帰順」した集団として扱っている。「一視同仁」の朝鮮人とはいえ、国防保安法の対象であったろうから、それ相応の監視下に置くし、精神的な指導も手を抜かなかったであろう。


 「軍夫」問題の研究の歴史は、これからひもとかなくてはならないが、こうしたこともすでに解明されているのだろうか。