那覇市内の朝鮮人強制連行・強制労働跡を訪ねる

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写真は、現在の那覇埠頭。朝鮮半島から連行されてきた「軍夫」はここで港湾荷役をさせられたのだろうか。

 

『恨 朝鮮人軍夫の沖縄戦』(海野福寿・権丙卓)P155をテキストに、朝鮮人が強制労働をさせられた那覇市内の場所を訪ねてみた。あくまで推定で、厳密に確定して歩いたわけではない。

 

那覇へ連行された軍夫たちが属した特設水上勤務第一〇三中隊、通称球八八八六水勤隊は、港湾荷役など雑役作業に使役される、武器を持たない軍属隊である。
着いた翌日から那覇埠頭の荷役作業が始まったが、宿舎は野営した練兵場①から市内の天妃(てんぴ)国民学校②へ、さらに「家政女学校」と呼ばれていた積徳女学校③へ移った。>

 

① 松川か? 1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)を行うにあたり、沖縄に派遣された熊本鎮台沖縄分遣隊は、1890年(明治23)2月に、安里村(あさとむら)(現大道(だいどう)・松川(まつがわ)一帯)の畑地17,580坪余を取得し、練兵場(れんぺいじょう)・射的場(しゃてきじょう)用地とした。
② 現在も天妃小学校・幼稚園があるが、同じ場所か?
③ 積徳高等女学校慰霊之碑は、同校発祥の那覇市松山の大典寺境内に建立されているが、同境内の説明板によれば、大典寺内に建てたのは寮で、校舎は美栄橋の東横インそばを流れるガーブ川沿いにあったという。そのあたりを歩いたが、校舎の遺構のようなものは見当たらなかった。美栄橋から港まで歩いておよそ1時間弱。1日10時間以上の重労働を終えての帰りは、きつかっただろう。

 

<朝五時、起床ラッパで飛び起き、大急ぎで寝床を整理して班別点呼。朝食。
炊事当番が炊いた飯は、米麦半々、沖縄産のいもも入っていた。米は安南米のようで、まったくねばり気はなく、古米のため真黒に見えるほど虫が付着していた。それも腹一杯食べられるわけではなく、班別に割当てられた釜の飯を飯盆に分け、飯盆の蓋くらいしかない飯を三人で食べるのだから、いつも満腹になることはなかった。
朝食後、運動場に集合。分隊別、小隊別に整列して点呼。その日の作業の指示を受ける。那覇港④へ行き、船の荷物を艀(はしけ)に積みかえる仕事、艀から陸揚げして兵営、施設、倉庫などへ運ぶ仕事等々。
時には、肩に担いで運ぶこともあったが、ふつう陸上では鉄の車輸のついた運搬車に荷物を積んで四、五人で押したり牽いたりした。でこぼこな下り坂で、重い荷物を山と積んだ運搬車を牽くことは容易なことではない。>

 

④ 通堂町だろうが、正確な場所は不明

 

<沈在彦(安心面淑泉洞)は回顧する。
「埠頭に陸揚げされている大砲を、高い山⑤の上にあげるというのに、まったく原始的な方法しかなかったのです。大砲は底車もない鉄の塊です。太い丸太棒を道に敷き、その上に大砲を載せて押し上げるのです。山の上まで上げるのに何週間もかかりました。
食べ物がないのに、どうしてあんなに汗が出るのか。夕立をまともに浴びたように肌にぴったりくっついた服を着た同僚のみすぼらしい恰好は、まともに目を当てられないほど悲惨でしたよ。セメント袋を担いだ時なんかは汗でぐしゃぐしゃになったセメントが服に染みて、後で鎧のように固まっちゃって」>

 

⑤ 高い山といえば城岳になるのだろうか? 1945年(昭和20年)の沖縄戦中は、山部隊の那覇守備隊陣地壕として使われ、5月には城岳周辺で激しい戦闘も繰り広げられた。同地は、公園になっていて、1990年に奥武山公園から移設された「二中健児の塔」が建っているが、砲台跡などはない。

 

<崔瀚北、兪世鎮(押梁面夫迪洞)らの証言-。
「あの時、一番辛かったのは、あまりにも重い物を運ぶことと、ひもじさに耐えることでした。昼飯時に飯金に三分の一ぐらい入った冷飯を三人で分けて食べるのですからとても足りません。だから、前もって一人分ずつに分けておいて、めいめいが自分の分を食べたりしました。みんな自分の分の弁当に水を入れて日向に置いておくのです。すると、思一飯までに飯粒がふやけて飯盆いっぱいになって、一時的にせよ満腹感が味わえる、という小細工をしたものでした」
われわれは、彼らがどれほど飢えに苦しみ、耐えたかを推察することができる。「現地でもっとも辛かったことは何か。一番楽しかったことは何か」という問いに、大部分の応答者は、一番辛かったことはひもじかったことと過度の労働だといっている。楽しかったことなど何もない、とほとんどの人はいうが、鄭哲模(チョンチョルモ)(珍良面仁安洞)は、武器弾薬を運搬する時は辛かったが、食料品を運搬する時は楽しかった、という。また)金大根(キムデグン)(龍城面道徳洞)は、弾薬の運搬など手に余る仕事が一番辛かったが、食事の時は楽しかったと答えている。あの粗末で、少ない飯が、である。
Tという同僚は、食糧運搬作業中、包装の破れ目から缶詰一個を取り、隠し(ポケット)にしまおうとした時、発見された。彼はその場でひどい「気合」を受けたが、「気合」は幕舎に帰ってからもつづいた。>

 

那覇市史をしっかり読み込むか、郷土史研究者の協力を得るかしなければ、朝鮮人の強制労働現場を特定することはできないかもしれない。